1.環境哲学/環境思想とは何か?
(1)環境時代の半世紀
環境という言葉が叫ばれるようになって、およそ半世紀が過ぎようとしています。この4、50年という歳月の間、多くの人々の努力によって、わたしたちは大きな前進を果たしてきました。例えば環境問題が人類の共通課題であること、またそれがわれわれが直ちに取り組まなければいけない課題であることは、今や多くの人々の共通認識となりました。
また環境改善のための技術の進展には目覚ましいものがあり、例えば都市環境は40年前からは見違えるように美しく清潔になり、また以前には到底考えられなかった形での代替技術の開発、そして驚くべき速度での効率改善によって、かつて目前に迫ったと言われた資源の大規模な枯渇も、繰り返し先延ばしになってきました。これは半世紀にわたる人々の努力の結果であって、讃えられるべきひとつの成功と言えるでしょう。
しかしわれわれはそうやってただ過去の実績を引き合いに出し、自賛しているだけでいいのでしょうか。例えば40年前にこの運動を支えた旗手たちが、仮に今のわれわれが生きるこの社会を目の当たりにしたとして、その時彼らは本当にそれを、彼ら自身が夢みた未来社会の形だとして賞賛するのでしょうか。
むしろ彼らは気づくかも知れません。われわれの社会の表層的な華やかさをひと皮むくと、そこには多くの欺瞞がはびこり、社会の本質は結局のところ、彼ら自身が生きた時代と根本的には何も変わっていない、ということに。例えば、都市環境がよくなったように見えるのは、公害産業が海外に移転したり、廃棄物の多くが海外に輸出されたり、山奥の貯蔵庫に押し込められているだけで、汚い物がただ単に人々の目につかないように巧妙に隠されているだけだということは本当にないのでしょうか。
そしてむしろ新しい世代が技術の恩恵を受けすぎた結果、かえって技術以外のさまざまな選択肢を模索する努力を放棄しつつあること、技術的に対応できる問題ばかりに焦点を合わせてきた結果、彼らが問題にしようとした文明や人間それ自身への問いが失われつつあること、さらに彼らが40年前に警鐘を鳴らし続けた“近い将来の危機”が現実となり、未来世代はすでにその危機の渦中にいるにもかかわらず、その自覚を欠いていることを残念に思うかもしれません。
(2)環境主義が問いかけたかったこと
60年代から70年代初頭にかけて環境主義の運動が興った際、人々がそこに引きつけられたのは確かに、砂漠化、スモッグ、酸性雨、化学物質、汚染、資源枯渇、人口爆発といった具体的な環境問題(80年代頃になって、オゾンホールや気候変動、生物多様性といった、いわゆる地球環境問題が問題にされるようになりました)が現実に存在していたからでした。なるほど、環境主義の原点がこうした環境問題の存在と、その具体的な解決にあるとするならば、面前の問題さえとにかく改善できればそれでよい、問題が起きればその都度技術的に対処していけばいい、という考え方もあるでしょう。
しかし環境主義の真価は本来、環境問題を出発点としながらも、議論を単なる個別的な問題の改善に終わらせなかったことにありました。つまり個別的な環境問題だけでなく、諸々の問題を貫いている共通の、いわば根本的な原因とは何かを問うことによって、ひとつの思想を作り上げてったということ、別の言い方をするならば、環境問題それ自身以上に、われわれがなぜ環境危機という事態に直面してしまったのかを問うこと、われわれのこれまでのあり方のどこに問題があり、この事態を踏まえてわれわれが目指すべき人間存在の、そして社会のあり方とは何かを問題にすること、これこそが環境主義の真の命題だったと言えるでしょう。
そこには大きく分けて、四つの論点がありました。ひとつ目はわれわれが科学技術に過度に依存していること、あらゆる問題を科学技術で解決できると素朴に信じてきたこと、そしてわれわれの社会そのものが多くの問題を科学技術によってしかアプローチできないような仕組みで動いていることです(科学技術万能主義批判)。
ふたつ目は、われわれの社会においては、人間存在の福祉が全面的に物質を消費することによって実現され、”豊かさ”についてももっぱら消費される物質の”量”として理解されていること、また経済社会は環境負荷をもたらす大量生産・大量使消費・大量廃棄がなければ成り立たず、恒久的な経済成長を必要とする仕組みになっていることがあげられます。それはわれわれ自身が、使用可能な資源や環境負荷の許容量には限界があるということに思い至らず、物質的な富の拡大に酔いしれてきたことに対する反省である、とも言えるでしょう(物質主義・産業主義批判)。
みっつ目は、このような科学万能主義が浸透し、物質主義・産業主義に基づく社会をわれわれが作り上げてしまった背景に、われわれが人間だけの都合を長くにわたって追究し、人間それ自身が他の生命や自然物、あるいは地球生命圏に深く依存し、そこから切り離して存在できないという認識を欠いてきたことが深く関わっていたのではないか、ということです(人間中心主義批判)。
そして最後に、一連の環境問題の行く先に、やがて途方もない破滅的な未来がわれわれの文明に襲いかかるのではないかという恐怖です。それは一方では予測不可能な大災害が起き、また生態系の均衡が崩れて生態系全体が壊滅的なダメージを被るのでは、といったことがありました。しかし他方では環境悪化や資源枯渇によって生活必需品が全員の手に回らなくなったときに、われわれの社会にいったい何が起きるのかということ――資源を巡る戦争だけではなく、一部の国が資源を囲い込み一部の人々が飢えるに任せたり、環境難民が押し寄せた場合のやむを得ない対応といった議論が真剣に行われました――に対する恐怖、自分たちがそのどちらかになりかねないという現実的な恐怖です(破滅へのリアリティ)
したがって環境主義の原点とは、単に目の前の環境問題が改善されればいいということではなくて、破滅的な未来を避けるために、またそれをひとつのきっかけとして、われわれ人類が歩んできた道筋をもういちど根本的なところから振り返り、今とは違う新しい形――オルタナティブな価値、オルタナティブな世界観に基づく、オルタナティブな社会ーーを模索することだったのです。
(3)エコロジズムという思想
それでは”新しい社会”とは、どのようなものになるのでしょうか。ここから出てきたのが、エコロジズムという思想です。エコロジズムは70年代から80年代にかけてさまざまな形で現れましたが、その代表的な形態の特徴は、その名前からも分かるように、”新しい社会”のための手がかりをエコロジー(生態学)から引き出していたことにありました。
エコロジーの科学的な成果は19世紀末から1940年代までに飛躍的に向上し、この時期までに、食物連鎖、栄養段階、生態ピラミッド、そしてエコシステム(生態系)という概念が出そろいました。生物の世界は一見個体どうしの無秩序な世界に見えて、そこには生物種をこえたつながり、微生物や土壌、気候をも含めたダイナミックな関係性、生物相互の複雑な相互依存の関係性が存在することが理解されるようになったわけです。
”新しい社会”を模索していた人々は、このエコロジーを単なる生物科学ではなく、ひとつの世界観として理解しました。つまり人間自身が存在し生きるということは、根本的に人間だけの問題ではなく、人間が関わり合うすべての生命とともにあること、そして人間を含むすべての生命とともに、複雑な均衡によって成り立つ地球生命圏に依存しながらで生きていくことに他ならないことを、エコロジー的な世界観はわれわれに教えてくれる、と考えたからです(イデオロギーとしてのエコロジー)。
ある人たちは、ここから倫理の新しい形が作れるのではないかと考えます。つまり人間だけが想定された倫理の枠組みではなく、人間以外の他の生命をも包含した新しい倫理の枠組みが作れるのではないか、ということです。このことは、環境保護を促進したり、できるだけ環境負荷の少ない行動を人々に取ってもらったりするためには、意識を変える新しい倫理規範が必要だと考える人たちの強い希望とも合致していました(環境倫理学)。
しかしエコロジズムの問題意識はもっと深いところにありました。倫理の問題は確かに重要ですが、それは真相の一側面でしかないのではないか、例えばわれわれが環境破壊的な社会の仕組みを作ってしまったのは、本当に単に人間の行動を抑制する倫理原則が不足していたからだけなのか、といったことです。
例えば人間と他の生物が関わり合っているというエコロジー的な認識、あるいはわれわれを取り巻いている生態系という秩序に対してわれわれが鈍感になっていたのはなぜか、ということを考えてみます。ある人はそれが倫理原則によって抑制しなければならない独善的な欲望を持つ人間の本性だと言います。
しかしそうとも言い切れないのです。というのも人間の歴史を振り返ってみると、多くの伝統的な社会では、人間と自然の関係性を強く意識したエコロジー的な世界観が確立しており、それに基づく規範が制度化されている場合が多いからです(よく引き合いに出されるのはネイティブアメリカンの例ですが、例えばわが国でも”八百万の神”という言葉を用いて人間と自然の関係性をさまざまに表現してきました)。
このことを考えると、自然や他の生命を人間のための道具と見なす”人間中心的”な世界観の枠組みは、必ずしも人間そのものの本質であるとは言えないことが分かります。そしてわれわれが考えるべきことは、こうした世界観がむしろ歴史のある段階になって立ち現れてきたもの、あるいは歴史のある段階において著しく強化されたものなのではないか、ということになるということです。
エコロジズムの考えによれば、われわれの世界観の歴史には重大なターニングポイントがあり、彼らが特に着目するのが、近代科学が現れる過程で、人間と自然を切り離して理解し、また自然や生命を機械のように分解して理解できるとする”特殊な世界観”が現れたという点です。
近代科学は確かに自然を徹底的に分解可能な”機械”として理解することで、非常に有用な科学技術をわれわれに与えてくれました。しかし自然や生命が関係し合う”生きた他者”としてではなく、”死んだ機械”として単なる対象物となるとき、生けとし生きるものの全体を捉える視点は失われるということ、そして伝統的な社会が持っていた自然に対する規範意識は、これによってそれを支えるメンタリティを一切失ってしまうのです。
つまり科学技術のもたらす便益がコインの表とするならば、まさにそのコインの裏において、われわれの文明社会はきわめて環境破壊的で、歯止めのきかないものへと変わってしまったのではないかということです(機械論的世界観批判)。
そうすると、われわれに重要なことは、自然や生命に対するわれわれの理解の形、世界観を根底から変えることだ、ということになります。つまり倫理原則そのものではなく、自然や生命を関係し合う”生ける他者”として共感的に理解でき、自ずと倫理が機能する、いわば倫理の土台となる新しい世界観の構築が必要だ、ということになるでしょう(生命中心主義)。
もっともエコロジズムの思索は、ここからさらにわれわれの世界観の問題を掘り下げていきます。例えばわれわれが、生物は個体でバラバラに存在していると理解していたようなある種の”常識的な捕らわれ”が、他にもないでしょうか。
例えばわたしたちは人間存在もまた、結局はひとりひとりバラバラだと思ってはいないでしょうか。しかしあなたがあるのは、これまでの無数の人々との出会いがあったからで、そのうちひとりでも欠けたら、今のあなたは存在していると言えるでしょうか。そして同じ理由で、あなたに関係し合うすべての存在が(あなたにとって関わりのある人だけでなく、関わりのある”もの”たちを含めて)ひとつひとつ失われていくことを想像した際、それらがひとつひとつが消え、ついに世界にあなただけが残るとき、最後に残ったものは果たして本当にあなたと言えるのでしょうか。
つまりあなたがあなただと思っている”存在”は、あなたに関係しているすべてのものに依存せずに、本当の意味で存在していると言えないのではないでしょうか。
ようするに、自然の中に内在する無数の関係性、また自然と人間が織りなす無数の関係性が見えなくなっているのと同じように、われわれは人間ひとりひとりの”存在”というものでさえ、われわれは分解可能な機械の部品のように、他の”存在”から切り離して理解できると思い込んではいないか、ということです。
少し抽象的ではありますが、ここで重要なことは、われわれがこの物質文明の中で生きてきたことによって、どうしようもなく捕らわれてしまっている”虚構の常識”が他にもあるのではないか、あるいはその”捕らわれ”によって見失ってしまった”人間本来の姿”がどこかにあるのではないか、という問題意識です。
例えばわれわれは今、本当の意味で”生きている”と言えるのでしょうか。お金さえあればインターネットで何でも買える世の中で、他者とのコミュニケーションを一切絶っても、それは人間存在として”生きている”ことになるのでしょうか。あるいはマンションの一室を点々としながら隣の住人の顔も分からず、どこのものとも知れない材料で誰によって作られたかも分からない加工食品を毎日食べ、満員電車に押されながら帰ってきて寝るだけのための住居は、本当にその場所に”住んでいる”ことになるのでしょうか。
同じようにして、本当に”生活する”とは何か、あるいは”仕事をする”とは何なのかを考えてみてください。われわれは現代社会の要請にしたがって必死に生きようとする中で、こうした人間存在の根本に関わるべき部分でさえ蔑ろになり、いつの間にかそこに数多くの”虚構の常識”が入り込むようになってはいないでしょうか。実のところ、エコロジズムが問題にしたかったのは、こうした根本的なレベルに関わることでもあったのです。
彼らが目指した”新しい社会”とはどのようなものだったのか。彼らはその具体像を十分に描ききれませんでしたが、そこにひとつの共通するイメージがあったのは確かです。それを要約すると次のようになるでしょう。
まず人間の幸福とは、たくさんの物に囲まれることではなく、その生活の”あり方”そのものにこそあるということ。それは”量”ではなく”質”を大事にし、”形”ではなく”意味”を大事にする生き方であるということ。日々”食べること”、”住むこと”、身の回りで必要なことを、生態系の一員である動植物に触れ、仲間と語り合い、ともに仕事をする中で力を合わせて実現していくということ。
たとえ将来的に総人口が減少し、現在の消費の水準を維持できなかったとしても、これらのことを通じて自分たちがいかに多くの生命・多くの人々に支えられており、同時にその一員であるのか、またその再生産を自分の力で実現できるのだということを日々実感できることの方が、はるかに満ち足りて幸福なのではないか。
つまり人間存在にとって最も重要なのは、すべての”生命”や自然物そして他者との繋がりを日々感じて分相応に慎ましく生きること、自らの身の丈にあった社会、経済、技術を大切にし、等身大の生き方をすることだということ、またそれは自然の秩序を破壊することでもなければ、それに従うということでもなく、それに”寄り添いながら生きる”ということである、ということです。彼らが目指したかったのは、こうしたことが実現できる社会でした(この一連の思想をディープ・エコロジーと呼びます)。
(4)エコロジズムの限界
このようなエコロジズムに対しては、多くの批判が起こりました。例えば彼らが”生命圏平等主義”という言葉を使ったために、彼らが人間ひとりの命と他の動植物の命を同等に扱っている、あるいは彼らがより人口の少ない社会を目指していると主張したために、それが”エコファシズム”である、というものもありました。
しかしこれまで見てきたことを踏まえるなら、このような批判は彼らの真意を理解できずに、誤解に基づいていることが分かるでしょう。もっとも他の意見として、彼らが現代社会を否定しすぎる、原始生活を礼賛しているだけの懐古主義だ、と言う批判もありました。
もちろん現代社会が彼らの言うような姿だけではないということはその通りでしょう。われわれの文明が切り開き、克服してきたものがいかに多くあったのか、そしてそこには先人たちの数々の思いや途方もない努力があったことは事実です。
しかしその事実を受け入れることと盲目になること、敬意を持つことと追従すること、逆に批判することと否定することとは違うのだと理解しなければなりません。
後でもう一度言及しますが、思想の役割とは、われわれが生きている時代の本質とは何か、ときの世代が直面した世界の真実を、その世代のリアリティに従って問い続けることにあるからです。40年前から30年前の先人たちが、環境危機を出発点としてかの時代をどのように理解したのかということ。後の世代にとって、このことは途方もなく重要な意味を持つのです。
もちろん、現在から見れば確かにエコロジズムにも問題がありました。それは環境哲学/環境思想としての欠陥で、しかもかなり大きな問題です。端的に述べると、それは彼らが人間中心的な世界観とエコロジー的な世界観の対比にこだわりすぎた結果、われわれの生きる時代の重要な特徴のいくつかを読み解けなかったことにあります。
例えば新しい倫理の枠組みを追究したグループの議論はやがて、自然はそれ自身で価値を持つのか、価値を持つとすればどこからどこまでで線引きができるのか、といった高度に抽象的な議論となり、やがてそのような議論に何の意味があるのかという内部からの倦怠感に満ちた声に晒されるようになりました(倫理学的基礎付け主義の問題)。
他方他の人々はおよそ400年前から300年前に現れた世界観の変容に着目してきましたが、それから100年後に起こったわれわれの社会様式の大転換にはあまり注目しませんでした。彼らの思想の枠組みは、一貫して”人間中心的世界観”か”エコロジー的世界観”かの二項対立によって組み立てられているために、社会に生じるさまざまな変化は、世界観の派生物となってしまうのです。
つまり世界観が人間中心的になれば社会も人間中心的となり、世界観がエコロジー的になれば、自ずと社会もエコロジー的になるという単純な想定が、ここには内在することになるわけです。
しかし歴史の展開においては、”世界観の変遷”と”社会様式の変遷”には相互関係はあっても、それぞれは基本的には別々のプロセスとして理解しなくてはなりません。つまりわれわれの”内面”が変わるということと、現実の社会が変わるということは、やはり切り離して考えなくてはならないのです(精神主義の問題)。
エコロジズムの枠組みが”世界観の問題”という次元で閉じている限り、彼らのイメージする理想社会が実現することはありません。また彼らの思想がこれ以上よい方向に深まっていくことは望めないでしょう。
実際エコロジズムは、その後抽象度を増すだけでなく、トランスパーソナル――すべての人格は根底でひとつにつながっているという考え方――や、精霊崇拝、ネイティブアメリカンの秘技を模倣といった、精神世界に傾倒していくことになってしまいました。それを仲間内でやっていること自体はよいのですが、物事を過度に神秘化すると、言葉や理論を放棄して直感的に理解できるかどうかという話になり、思想の力を失ってしまうからです(神秘主義の問題)。
エコジズムは環境哲学の歴史において重要な役割を果たしましたが、この思想の潜在力はひとつの終着を迎えたと理解すべきでしょう。環境哲学/環境思想はいわば、新しい思想を切り開いていく段階に来ているのです。
(5)環境哲学/環境思想の役割4>
以上を通じて、環境主義やエコロジズムについて述べてきましたが、ここでこのサイトが探究すると掲げている環境哲学/環境思想とは何なのかについて、簡単に定義しておきたいと思います。
まず哲学とはギリシャ語で”知を愛する”ということを意味します。しかし古い格言をいくら暗記していようと、それはそれで価値のあることですが、本当に”知を愛している”ことにはならないでしょう。”知を愛する”には”常に問う心”が必要です。
そして”問う”ということには勇気と忍耐がなくてはなりません。例えば何の疑問も批判も抱かずに、その場その場でやり過ごしながら生きるのは、実はある意味ではとても楽なことなのです。むしろ本来考えなくてもいいようなことに捕らわれ続け、他者からの批判や無理解を受けながら、それでもおのれの確信に誠実でいられるのかどうか、そしてそれを自身が言葉や理論として表現できるようになるまで貫き通していく覚悟が哲学では試されます。
またここでは”哲学”と”思想”を区別しています。哲学という言葉が”常に問う心”を象徴するとするならば、思想という言葉には、哲学的な営みに内在する”歴史性”が象徴されている側面があるからです。思想には、それを組み立てた人間の生きた時代が色濃く反映されますが、むしろそれはある時代に生きた人間の、時代に向き合い”問い続けた”痕跡であると理解すべきです。彼がなぜそれを問おうとしたのかという真意は、その時代のリアリティの中に隠されているからです。
そしてなぜ人は時代を問うのか、またなぜ問い続けられるのかと言うときにひとつの意味を与えるのは、それを問い続けた先人たちが実際に存在していたということへの誇りに他なりません。古い世代から託された灯火を知って初めて、人は未来世代へ託すための灯火を燃やす勇気と忍耐の意味を知るのです。
したがって「あなたはどう考えるのか」という問いに対して、哲学で重要なことは「あなた自身の考えをいかに誠実に語れるのか」ということになりますが、思想の場合、それは「古い世代の”答え”を聞いた上で、あなたは次世代の人間のひとりとしていかに”次の答え”を出すのか」ということになるでしょう。
このことを踏まえて、それでは”環境哲学/環境思想”とは何かを、考えなくてはなりません。私なら、次のようにいうでしょう。
環境哲学/環境思想とは、われわれが直面している環境危機とはいかなる事態なのか、そして環境危機に直面した現在とはいかなる時代なのか、その時代の本質、その時代を生きる人間存在の本質とは何か、そしてそこに人類の歴史から見ていかなる意味があるのかを問うことである、というようにです。
この出発点を切り開いたのは、これまで見てきたように環境主義でした。そして環境主義の問題意識をひとつのまとまった体系として描いて見せたのがエコロジズムでした。環境哲学/環境思想は環境主義によって産み落とされ、これまでエコロジズムによって支えられ、育てられてきた、と言っても良いでしょう。
環境主義とエコロジズムは、環境哲学としても、環境思想としても立派な道標をわれわれに残してくれました。そして先に見たように、今環境哲学/環境思想は従来のエコロジズムとは違う、新しい枠組みを構築する段階に来たわけです。ここから先に、そのためのいくつかの”手がかり”について述べます。
(6)新しい展開のための三つの手がかり
まず最初の手がかりは、環境哲学/環境思想はエコロジズムの果たした役割と限界をしっかりと引き受け、それでいて原点である環境主義にもう一度立ち返るべきだということです。最初の方で環境主義が持っていた四つの論点について確認しましたが、ここでは人間中心主義の問題は、たったひとつの論点に過ぎなかったことを思い出すべきです。
そして環境主義が彼らの生きる時代に対して、世界観のレベルにおいても、また社会様式のレベルにおいても、それを総体として問おうとしていたことを再認識する必要があります。つまりわれわれの社会がいつ環境危機へのターニングポイントを迎えたのか、またその背景には何があったのか、そしてわれわれの社会がいかにして環境危機なるものを生み出しているのかを、人間中心的な世界観かエコロジー的な世界観かという論点に捕らわれずに、問い直さなくてはなりません。
ここで注目したいのは、今日われわれが生きている社会の姿というものは、われわれを支配している世界観と同じように、人類史的にはそれほど古いものではないという事実です。
まず人類の歴史を20万年とするなら、われわれを支配している近代的世界像は400年前から300年前にかけてのヨーロッパで誕生しました。この”特殊な世界観”については、エコロジズムが”機械論的世界観”という形でひとつの説明を試みましたが、他にも数多くの重要な特徴がありました。
例えば形而上学的・認識論的前提として機能する普遍主義とは何か、科学=技術主義とは何か、進歩主義とは何か、あるいは人間における自由、難しい表現ですが個人的自律主義(個人の自律)とは何か、こうしたことを問題にしなくてはなりません。
しかし同じようにわれわれを支配している社会様式もまた、300年前から200年前にかけてのヨーロッパで生まれたモデルが、世界中に拡張されることで今日の社会が作られているということです。この近代的社会様式を問うためには、国民国家とは何か、市場(貨幣)経済とは何か、エネルギー革命とは何か、また共同体とは何か、意味内在経済と意味喪失経済の違いとは何か、産業革命とエネルギー革命の違いとは何か、といったことを根本的に考える必要があります。
ようするにわれわれが生きている世界は、世界観も社会様式も、歴史的にはごく最近になって現在の形に組み変わったということ――その枠組み全体のことを近代と呼びます――そして新しい環境哲学/環境思想を構築するにあたっては、まずもってこの”近代とは何だったのか”を問うところから出発しなければならない、ということです(近代批判の環境哲学)。
二番目の手がかりとなるのは、環境問題、あるいは環境危機というものを再度定義し直すということです。「環境問題はいったい何が問題なのか」という問いがあるとするならば、この問いから逃げずに向き合うことが必要です。
近年サステイナビリティや持続可能性といった言葉が流行していますが、これらの言葉はいろいろな人たちの都合に合わせてあまりに都合よく使われすぎている感があります。例えば”持続可能”と言いますが、それはわれわれ人類を持続させるのでしょうか、あるいは地球生命圏を持続させるのでしょうか。そうではなくて経済成長を持続させるという意味でこの言葉を使っている人も大勢います。
一般的に言って、専門用語の体裁を取りながら中身自体が判然とせず、言葉のニュアンスだけで流布されているものには、大抵多くの”まやかし”が含まれています。”概念”と”キャッチコピー”は根本的に別のものだと理解する必要があります。
とはいえ、多くの人がこの言葉に惹きつけられることには、やはり何らかの理由があるはずです。私の見方によれば、それは多くの人が直感的に気づき始めたからではないでしょうか。つまり環境問題は本当は環境そのものが問題なのではなくて、問題になっているのは私たちが生きている今日の社会の枠組みそのものなのだということにです(半世紀前の環境主義の真意はここにあったわけですが)。
そこで私が提案したいのは、(少し言いにくいのですが)持続不可能性という概念です。というのも”持続可能”という言葉から入ることがいけないのだと思います。そうではなくて、われわれが持続可能を問題にするということは、実は現在のあり方が何らかの形で”持続不可能”な状態にあることを、われわれもどこかで認めているはずだということ、そしてこのことを踏まえて、われわれが生きる社会を持続不可能なものにしているものとは何か、その持続不可能性は何に由来しているのかを明確にすることから出発しよう、というわけです(持続不可能性の環境哲学)。
そしてここで、われわれの”現在のあり方”とは、数100年前に現れた”近代という枠組み”であったことを思い出してください。つまり第二の手がかりというのは、われわれの社会の持続不可能性の根源を、近代とは一体何か、そしてそれはいかなる歴史的な経緯のもとで立ち現れきたものなのかについての立体的な考察の中から導き出す、という戦略に他なりません。
ただしこのためには、近代的世界像と近代的社会様式の分析だけでなく、いくつか別の理論を組み合わせていく必要があります。私が注目しているもののひとつはエコロジー経済学、もうひとつは社会―生態システム論です。両者はともに、環境時代の新しい環境理論と言えますが、最大の特徴は社会システムとエコシステムの相互関係性を分析する枠組みを持っているということです。
近代批判から浮かび上がる緒論点とこれらの環境理論を組み合わせることで、われわれは近代に特徴的な社会システムの様式が、エコシステムとの関係性において、どのような特性を持っているのかを理解することができます。そしてここからまず、近代社会のもたらした”第一の持続不可能性”と、”第二の持続不可能性”を導き出すことができるでしょう。
まず第一の持続不可能性とは、ひとことで言ってしまうと、われわれの社会が根本的に環境収容力という“限界”に基礎づけられていながら、その収容力を超えた規模にまで拡張し、かつその物質的な膨張を続けていること、さらにはその規模と膨張がなければ人間の幸福や福祉はおろか、社会システムそのものすら維持できないような形に構造化されている、ということです(環境の持続不可能性)。
環境主義が現れるひとつの発端になったのは、われわれが無限だと信じていた環境収容力が有限である、ということの認識だったはずです。この論点はしばしば敢えてごまかされていることもあるのですが、生態学的な”限界”とは環境哲学の第一原理と言ってもよいほどの重要な論点であり、これ抜きにして構築されるいかなる環境哲学も虚構と呼ばざるを得ません。
例えばわれわれは今でもなお、さまざまな理由を持ち出して、この持続不可能な社会様式を維持するために化石燃料を使っています。しかしそれは本来、持続不可能な現在の社会様式を持続可能な新しい社会様式に組み替えるためにこそ使わなければならないものであることを、私たちは忘れてはいけません。再生不可能なエネルギーが底を突く前に、私たちは社会様式の移行を達成しなければならないのです。
次に第二の持続不可能性とは、われわれの社会システムの持つ際立った硬直性の問題、別の言い方をすると、予測不可能な危機に対する脆弱さのことを指しています。例えば自然生態系は複雑適応システムとみなすことができ、社会システムのもたらす攪乱に対して予測不可能な振る舞いを引き起こします。しかしわれわれは社会システムを生態系の構造から切り離し、自然生態系からのリアクションをすべて予測とコントロールによって封じ込められると考えてきた。
問題は、そのような前提に立って高度に構築された社会システムというものは、予測とコントロールが機能するうちは非常にうまくいっているように見えるのですが、いったん想定を逸脱する大規模なリアクションに直面すると、それに対して著しい適応不全を引き起こしてしまうということ、また予測とコントロールによって封じ込めてきた分、潜在的な危機の水準をかえって高めてしまっている、ということです(社会システムの持続不可能性)。
ここでは結論だけを簡単に取り上げましたが、この二つの持続不可能性が人類史の過程でなぜ生じたのか、またいかにして生じたのかということについては、近代的世界像と近代的社会様式が歴史的に現れてくる過程を注意深く紐解いてく必要があるでしょう。
最後に三つの目の手がかりですが、それはわれわれが新しいの環境哲学の構築を試みるにあたっては、社会理論と同時に人間学を重視しなければならないということです。まず社会理論ですが、こちらについてはすでに何度か取り上げてきたように、近代の持続不可能性を明らかにするためには、価値観や世界観といった人間の内面に関わるものだけでなく、社会構造、あるいは社会システムのレベルでの分析枠組みが不可欠だということです。
その意味で、これまで見てきたように、新しい環境哲学/環境思想には近代的社会様式を分析するための固有の社会理論が必要になるということ、またそれは同時に社会システムとエコシステムの相互作用を射程に収めた本質的に新しい社会理論でなければならないということは明らかだと思います(環境社会理論)。
他方で人間学とは”人間存在”に関わる学、リアリティやアイデンティティ、自己確証のように、人間が人間としてあるとはどういうことかについて掘り下げていくことを指しています。
なぜ環境哲学に人間学が必要となるのでしょうか。その理由は、環境危機とは近代社会システムの問題であると同時に、やはりわれわれ人間存在の問題でもあるからなのです。例えば予測不可能な危機によって、社会システムが機能不全を引き起こしたとき、問題に直接さらされ、それに立ち向かわなければならなくなるのは人間ひとりひとりです。そして未来に向けて社会を変革する潜在力を持っているのは、やはり人間自身をおいて他にないことは忘れてはいけないでしょう。
皆が自覚しているかどうかは分かりませんが、この社会においては人間存在が互いに協力して問題を解決していくということが著しく困難なものになっています。信頼関係を構築することが難しく、また関係性を持続的に構築していくことのハードルが非常に高くなっています。たとえて言うと、ひとりひとりがあたかも”自分という殻”に引きこもっているかのようです。皆決して悪意を持っているわけではないのに、社会全体では倫理的な機能不全が生じています。皆が倫理的でないということではなくて、倫理というものが成立しないのです。また数多くの自殺者だけでなく、多くの方が精神不安で苦しんでいます。これらは決して単純な問題ではありませんが、それは単に個人問題ではなくて、社会全体がある種の病気にかかっていると私は考えたくなります。
例えばある日突然予測不可能な危機によって行政サービスや経済的物流、インターネットが機能しなくなったとき、現代社会に生きる私たちは、他者と協力して問題を克服していく力を、あるいは人間存在というものの力だけで何かを成していく力を、今日どれだけ保持しているでしょうか。もっとも文化的であるはずの現代人は、実は最も人間的な形で物事を前進させていく能力に劣っているという逆説が、ここにはあるのです。
私は近代社会には、第三の持続不可能性が存在していると思います。そしてそれはここで取り上げたような人間存在の問題、人間存在が健全に関係性を構築し維持していくための社会的な基盤、あるいはSNSのようなまやかしではなく、社会を再生産させていくために人間それ自身が本来持っている能力が社会的に失われていることにほかなりません(人間存在の持続不可能性)。
その意味では、先に見たエコロジズムはある面では独特の人間学を持っていたと言うことができます。しかし彼らの人間学はあまりに抽象的で感覚的なものでした。われわれの場合は、その土台を環境社会理論によって補強することで、彼らが感覚的にしか表現できなかった物事をより理論的に説明していくことが必要です。
例えば人間存在の関係性において、相互扶助を成り立たせている基盤とはいったい何か、あるいは倫理の、作法の、信頼の、自治のメカニズムは人間相互の関係性や社会システムといったものといかなる形で説明できるのか、そしてこうしたものを含めて人間存在の”在り方”が、世界観や社会様式の変容に伴ってどのように変わってきたのか、こうしたことを読み解いていかなければならないでしょう。
さて、ここではおおざっぱではありましたが、環境哲学/環境思想とは何かについて簡単に説明してきました。これらの各論の紹介については、また次の機会に更新したいと思います。