noteはじめました

 告知が遅くなりましたが、執筆系SNSのnoteを始めました。

 現在はまだコンテンツは少ないですが、職場で行っている授業をベースに環境哲学に関わる読み物を掲載したり、これまで論文として公開してきたものをわかりやすい形に直して掲載していこうと思っています。

 また、拙著『〈自己完結社会〉の成立――環境哲学と現代人間学のための思想的試み』(農林統計出版)』についても、本書の内容を分かりやすい読み物として講座形式で掲載していく他、図表やキーワードの解説を行っていく予定です(特設サイトの方でも、平行してコンテンツを準備中です)。

 よろしければぜひ覗いてみてください。


 直近では、先日こちらでもご紹介した、「持続可能性は何を持続させるのか――「地球1個分」をめぐって環境哲学的に考える」『環境配慮材料』(vol.4)AndTech、pp.77-86)について、許可をもらったので全文読める形で掲載していいます。

 こちらも興味のある方は覗いてみてください。

カテゴリー: 〈自己完結社会〉の成立, 巨人の肩の上より, 環境哲学 | noteはじめました はコメントを受け付けていません

地球1個分をめぐって

 久々に環境関連の原稿を書きました。今回は、持続可能な開発目標(SDGs)が流行化するなかで、あらためて「持続」とは何かについて書いたものです。

 私たちが持続可能性について語る際、しばしば、それが「何の」持続なのか、その持続によって「何を」目指しているのか曖昧なままに、概念が一人歩きをしている側面はないでしょうか?? 持続可能性やSDGsと言っておけば良いという風潮はないでしょうか??

 ここでは、私たちにとっての「持続」が、「いま」の持続を意味すること、その「持続」が目指すものとは、人々が持続的に振る舞う「システム」を構築することになっている、ということをいろいろな皮肉を込めて書いています。

 
「持続可能性は何を持続させるのか――「地球1個分」をめぐって環境哲学的に考える」

 はじめに
 1.「地球1個分」とは何か

  (1)人新世とエコロジカル・フットプリント
  (2)「地球1個」では足りないのか
 2.私たちにとって“持続”とは、“いま”の持続のことを指している
  (1)イースター島の寓話
  (2)脱成長という選択
  (3)惑星改造という選択
 3.持続可能性は、人々が持続的に振る舞う“システム”を構築することを目指していく
  (1)AIがもたらす、持続可能なシステムという未来
  (2)大破綻
  (3)「カプセル社会」のユートピア、「脳人間」のユートピア
 おわりに――〈有限の生〉の「世界観=人間観」を考える

(『環境配慮型材料』、AndTech、 vol.4、pp.77-86)

 以下、ご参考までに序文(はじめに)の部分を転載しておきたいと思います(なかなか一般的な方が手に取るのは難しいかもしれませんが、比較的平易な文体で書かれています)。

 
 持続可能な開発目標(SDGs)を中心として、時代はいま第3次環境ブームのただなかにある。そのため読者も、持続可能性やサステイナビリティといった言葉を耳にしたことがあるだろう。SDGsとは、ミレニアム開発目標(MDGs)の後継として、2015年に国連で採択された国際的な行動計画のことを指し、そこでは環境問題や貧困問題などを念頭に、人類が2030年までに達成すべき17の目標と169のターゲットがあげられている。

 とはいえ読者は、次のように考えたことはあるだろうか。私たちは持続可能性が大事だと主張するが、はたしてそれは“何を”持続させることを指しているのだろうかと――。例えばそれは、人類の持続を指しているのだろうか、それともいまある自然生態系の持続を指しているのだろうか。またそれは、いまの生活水準を持続させ、いまある成長や発展を持続させることを目指しているのだろうか。それとも人類だれもが分け隔てなく先進国水準の生活を送れることを目指しているのだろうか。あるいは私たちのあり方が根本的に持続不可能であるとの認識から、現在とはまったく異なるあり方を目指しているのだろうか。実は、この問いに答えることはかなり難しい。というのも、今日語られる持続可能性の実質においては、貧困や格差の解消が大事、経済成長も大事、環境保護も頑張ろう、「全部大事だね」といった具合に、とにかく社会通念上良しとされていることが無造作に詰め込まれ、その本質がどこにあるのかが見えにくくなっているからである。

 本論では、この「持続可能性とは何を持続させるのか」という問いから出発し、いくつかの思考実験を交えながら環境哲学的に考えていく。そして今日の持続可能性概念が映しだす未来、つまり私たちがいかなる世界とへ向かっているのかについて考えてみることにしよう。

カテゴリー: 環境哲学, 研究・学問 | 地球1個分をめぐって はコメントを受け付けていません

ポストヒューマンとリベラルな価値体系、〈無限の生〉をめぐる問題との関連性

 単著『〈自己完結社会〉の成立』を送り出して以来、同書の内容が現代の思想状況や、現代思想のキーワードとどのような関連性を持つのかについて執筆を続けています。

 これは昨年の秋に書いた原稿ですが、今回は、リベラルな価値を擁護しようとする人々と、それを否定しようとする新反動主義と呼ばれる人々をめぐって、その対立軸にポストヒューマンをめぐる問題がどのように絡んでいるのかということに焦点を当てています。

 一般的に新反動主義(N・ランドなど)が「ポストヒューマンな存在」(=トランスヒューマン)になることに対して好意的であることはよく知られています。ですが、その反対側に位置づけられるリベラルな価値体系の擁護者についても、その枠組みの行きつく先は「ポストヒューマンな存在」(=トランスヒューマン)であるという点では変わらないということ、またその背景には、人間の現実を否定して、「あるべき人間(社会)」の理念によって現実を塗り替えようとする、より根源的な形而上学(これを私は〈無限の生〉の「世界観=人間観」と呼んでいます)がある、ということを指摘するのが本論の趣旨となっています。

 
「ポストヒューマン時代」における「世界観=人間観」の問題について――現代科学技術とリベラルな価値体系、「人間性」をめぐる諸問題」

 1.はじめに
 2.「ポストヒューマン時代」の到来

  (1)「技術的ユートピア」と「技術的ディストピア」の狭間で
  (2)「人間性」への問い
 3.リベラルな価値体系をめぐる対抗軸
  (1)リベラルな価値体系を否定する新反動主義
  (2)リベラルな価値体系を擁護する「ポストヒューマニズム」
 4.〈無限の生〉の「無間地獄」
  (1)リベラルな価値体系の否定者と擁護者にまたがる奇妙な共通点
  (2)近代を支える〈無限の生〉の「世界観=人間観」
  (3)「現実を否定する理想」と「無間地獄」
  (4)「ポストヒューマン時代」における〈無限の生〉
 5. おわりに――〈有限の生〉からの再出発

『共生社会システム研究』、共生社会システム学会、 Vol.16 No.1、pp.213-232))

 以下、サマリーを掲載しておきます。これが論文として成功しているかどうかはいまいちなのですが、テーマとしては重要であると考えています。


 現代科学技術の進展とともに、身体と機械、脳とAI、治療と人体改造の境界が曖昧となり、われわれはこれまで自明とされてきた「人間」の概念が通用しなくなる「ポストヒューマン時代」を迎えている。

 本論では、「ポストヒューマン時代」の本質を探るために、新反動主義やポストヒューマニズムといったリベラルな価値体系をめぐる対立に着目する。というのもその対立の根幹は、西洋近代に成立した「人間性(humanity)」をめぐる異なる理解の仕方にあり、「ポストヒューマン時代」とは、まさしくその「人間性」の基盤となるものを技術的に操作していく時代のことを指しているからである。

 奇妙なことに、リベラルな価値体系の否定者も、擁護者も、技術によって自らを改変し、自らが「ポストヒューマンな存在」となることを肯定する。それは両者が、いずれも現実の外側にある「あるべき人間(社会)」という理念から出発し、現実そのものを理念によって塗り替えるべきだとする、〈無限の生〉の「世界観=人間観」を共有しているからである。

 しかし〈無限の生〉の「世界観=人間観」は、「あるべき人間(社会)」を絶えず求め、現実の人間(社会)を絶えず否定し続けなければならない。そしてその延長として、われわれはますます身体を捨てて「ポストヒューマンな存在」となることが望まれる。だがそれは「無間地獄」であるがゆえに、決して終わることがない。「ポストヒューマン時代」に求められているのは、理念から出発する〈無限の生〉ではなく、あくまで現実から出発する〈有限の生〉の「世界観=人間観」である。すなわち人間が人間である限り引き受けなければならないものとは何か、その存在論的な原点に立ち返り、その意味に再び目を向けるのである。真の意味での近代批判は、ここから始まるだろう。 
 
カテゴリー: 〈自己完結社会〉の成立, 研究・学問 | ポストヒューマンとリベラルな価値体系、〈無限の生〉をめぐる問題との関連性 はコメントを受け付けていません

ポストヒューマン時代についての諸々

総合人間学会シンポジウム

 先日、総合人間学会という場所で、シンポジウムの登壇者として報告を行いました。

 タイトルはポストヒューマン時代が揺がす人間らしさ――思想・哲学の視点からということで、この間書いてきた、情報技術、ロボット/AI技術、生命操作技術等の現実が人間存在に与える影響についてシンプルにまとめたものです(ともにご登壇くださった、木村武史先生(筑波大学)、久木田水生先生(名古屋大学)、中村俊先生((株)コルラボ)、ありがとうございました)。

 また、翌日はワークショップにて「ポストヒューマン時代」をめぐる哲学/思想的諸問題について――「無用者階級」、「脳人間」、〈自己完結社会〉、〈無限の生〉の「世界観=人間観などの視点を中心に」という形で、この問題をこの間新著にまとめてきた論点と絡ませる形で報告させていただきました(コメンテーターを担ってくださった、熊坂元大先生(徳島大学)、竹中信介先生(道徳科学研究所)、亀山純生先生(東京農工大学名誉教授)、ありがとうございました)。

 上記のリンク先に、図を除いたPPのスライドをご覧いただけるようにしましたので、興味のある方は覗いてみて下さい。


ポストヒューマン時代についての論考

 あわせてシンポジウムに先立ち、このあたりの問題意識を大雑把にまとめた論考「ポストヒューマン時代」における人間存在の諸問題――〈自己完結社会〉と「世界観=人間観」への問い『総合人間学』、総合人間学会、第16号、 pp.162-190)も発表されました。新著の導入にもなる論文だと思いますので、こちらもぜひご参照ください。

 「「ポストヒューマン時代」における人間存在の諸問題――〈自己完結社会〉と「世界観=人間観」への問い」

 1.はじめに
 2.「ポストヒューマン時代」のリアリティ

  (1)現代科学技術がもたらすもの
  (2)「ポストヒューマン時代」をどう評価するのか
 3.〈自己完結社会〉への目なざし
  (1)「持続可能」で、〈自己完結〉した社会の成立へ
  (2)「ポストヒューマン時代」のどこに矛盾が存在するのか
 4.「世界観=人間観」への着目
  (1)〈無限の生〉の「世界観=人間観」
  (2)〈無限の生〉の「無間地獄」
  (3)”個人化”される〈無限の生〉
  (4)「脳人間」の世界
 5.おわりに――〈有限の生〉の「世界観=人間観」を考える

 以下、冒頭の部分について転載しておきます。

 ビッグデータ、AI、ロボット、生命操作などの進展を通じて、われわれはいまや、身体と機械、脳とAI、治療と人体改造の境界が曖昧となっていく時代を生きている。それは、これまで自明とされてきた「人間」の概念が通用しなくなる時代という意味において、「ポストヒューマン時代」と呼ぶことができるだろう。そして総合人間学の中心的な問いが、まさしく「人間存在の本質とは何か」というものであるとするなら、この時代の局面をどのように理解し、どのように意味づけるのかということは、総合人間学においても避けて通ることができない重要な課題となるはずである。

 本論では、まず前述した諸々の「ポストヒューマン時代」の科学技術について、具体的に見ていくことからはじめよう。そしてその技術的現実が、われわれをいかなる世界へと向かわせつつあるのかについて、R・カーツワイル(R. Kurzweil)やY・ハラリ(Y. Harari)の分析を交えつつ、さらには独自に〈自己完結社会〉というキーワードを用いて考察することにしたい。〈自己完結社会〉とは、人々が高度に発達した社会システムに深く依存することによって、生身の他者と関わっていく必然性、生身の身体とともに生きる必然性を失っていく社会のことを指している。

 確かに「ポストヒューマン時代」の到来は、しばしば「人間疎外」や「管理社会」といった枠組みの延長線上で語られることが多いだろう。しかし事態は、それほど単純なものとは言い難い。この問題の難しさは、その矛盾の本質が、自由、平等、多文化共生をはじめ、われわれがこれまで希求してきた人間的理想と密接に関わっていることにある。端的に述べれば、われわれが信じる「あるべき人間(社会)」の理念に即すと、「ポストヒューマン化」は批判の対象になるどころか、その理想を実現するためにこそ、われわれは「ポストヒューマンな存在」になるべきだ、との主張が導かれうるからである。

 議論の後半では、こうした矛盾がなぜ生じるのかについて、われわれの認識や思考の背後にあって、それを加速させている〈無限の生〉の「世界観=人間観」というものから読み解いてみたい。〈無限の生〉とは、「意のままになる生」のことを指し、その「世界観=人間観」のもとでは、人間の使命とは、「意のままにならない生」の現実を克服し、それをあるべき理念に相応しい形に改変していくことであると理解される。そしてそこでは、その理想の形式が“現実否定”に基づくゆえに、ある種の「無間地獄」をもたらす様子について見ていこう。注目すべきは、今日においては、それが「あるべきこの私の生」と「現実のこの私の生」をめぐる矛盾となって現れているということである。ここから本論では、われわれが新時代の社会システムや科学技術を通じて「意のままにならない身体」や「意のままにならない他者」から解放されるほどに、かえって苦しみを深めていくメカニズムについて見ていくことにしよう。

 〈無限の生〉がもたらす理想の矛盾は、おそらくわれわれが身体を完全に捨て去った「脳人間」になるか、あるいは脳さえ捨て去った「思念体」になるまで続くだろう。その究極の“ユートピア”においては、人間存在の「自己決定」と「自己実現」は、かつてない水準へと上昇する。われわれはそこで、理念が指し示す「完全な人間」に到達するのである。しかしそこには、人間など、もうどこにも存在していない。このことは何を意味するのだろうか。本論では、順を追って説明していくことにしよう。

       

カテゴリー: 〈自己完結社会〉の成立, 本の紹介, 研究・学問 | ポストヒューマン時代についての諸々 はコメントを受け付けていません