『〈自己完結社会〉の成立』の「用語集」を公開しました

 以前から準備していたコンテンツで、ディスカッションページに拙著『〈自己完結社会〉の成立――環境哲学と現代人間学のための思想的試み(上巻/下巻)』(上柿崇英/農林統計出版/2021年)』の重要語句について解説を加えた「用語集」を公開しました。

 本書では、「〈生〉の舞台装置」「不介入の倫理」「担い手としての生」といったオリジナルの概念が数多く出てきますので、特にそれぞれの概念の関連性が分かるように意識して書いています。ただ、最初はシンプルに書いていたのですが、後になるほど細かくなって分量も増え・・・といったいつもの調子になっています。少しでも多く方が本書に関心を持ってくださると幸甚です。

 以下、いくつか例を挙げておきます。


〈生の自己完結化〉 【せいのじこかんけつか】

「われわれが高度化した社会システムへの依存を深めることによって、結果的に目の前の他者、物理的に接触する生身の人間に対して、直接的な関わりを持つ必然性を感じられなくなっていく事態を指している。……こうした人間のあり方のことを、本書では〈生の自己完結化〉と呼んでいる。」 (上巻 ⅰ-ⅱ)

 〈自己完結社会〉の成立に伴う具体的な現象のひとつで、〈生の脱身体化〉と対になる概念。より具体的には、人々が「官僚機構」「市場経済」「情報世界」によって構成される〈社会的装置〉への依存を深めることによって、生身の他者に対して、直接的な関わりを持つ必然性を感じられなくなっていく事態のこと。

 実際には、すべての人々が〈社会的装置〉を介してつながりあい、依存しあっているものの、人々にはその関係性が不可視化されており、それによって人々には、互いに互いを必要としていないように感受される。こうした心理的側面を通じて、生身の他者が負担やリスクとしてしか感じられなくなり、直接的な関係性を維持、構築していくことへの多大な困難(〈関係性の病理〉)を引き起こすことになる。

 他方で、まったく同一の現象が、互いの生を分離可能なものとして認知させ、〈ユーザー〉としての「自由」と「平等」が拡大するという形で、人々に「あるべき社会」の実現をもたらすという根源的な矛盾が含まれている。


「時代」 【じだい】

「だがここにこそ、人間が生きることのひとつの宿命がある。それはいかなる人間も、時代において生まれ、時代において生き、そして時代において死んでいくという、人間存在の根源的な定めに他ならない。時代において生まれるとは、自身の望みとは関係なく、人間はある時代に生まれてしまうということを意味する。また時代において生きるとは、生まれた時代に規定されながらも、人間は眼前の現実のなかで格闘し、より良く生きようとするということを意味する。そして時代において死ぬとは、命が尽きるそのときでさえ、人間は自らを規定する時代そのものからは決して逃れられない、ということを意味しているのである。」 (下巻 50)

 単なる歴史区分とは異なり、人間世界を形作る大きな流れや文脈のことで、いかなる人間存在も例外なくそれに規定され、命尽きてなおその規定から逃れられないもののこと(〈有限の生〉の第二原則=「生受の条件の原則」および、〈有限の生〉の第五原則=「不確実な未来の原則」)。

 例えば幕末の志士らが露国に勝利する帝国日本の姿を知らなかったように、大正知識人らは、米軍基地によって安全を保障される戦後日本の姿を知らなかった。瓦礫のなかで生き延びた人々が、隆盛する「経済大国」の姿を知らなかったように、札束にまみれたバブル紳士たちは、「失われた20年」に苦しむこの国の惨状を知らなかった。

 同様にして、内地へ帰るという思いを胸に、遠く戦地で息絶えた兵士、腹を空かせた家族のためにと、煤だらけになって働いた炭坑夫、豊かで文化的な暮らしを求め、「カイシャ」に全生活を注ぎ込んだ企業戦士、インターネットの可能性を信じて、システム開発に挑んだエンジニア、その誰一人として、自身の生きた〈生〉の先に、〈自己完結社会〉が聳えていることなど知るよしもなかっただろう。

 ここうした事実には、「時代」において生まれ、「時代」において生き、そして「時代」において死んでいくという人間的〈生〉の残酷さが体現されている。だがこのことは、現代を生きるわれわれ自身にもあてはまる。われわれもまた、この〈自己完結社会〉が台頭していく時代のもとで生まれ、この時代のもとで生き、そしてこの時代のもとで死んでいかなければならないからである。

 われわれもまたおそらく何かを「誤る」のであり、いつの日か必ず時代そのものによって裏切られ,取り残されるときがくる。しかしそのことを覚悟しながら、なお、人は何かを選択し、決断しなければならない。

 そこで問われてくるものこそ、「意のままにならない生」(=〈有限の生〉)の現実を前に、何かを背負い、必死に生きようとしてきた(そして生きていくだろう)人間存在そのものへの〈信頼〉「人間という存在に対する〈信頼〉」)である。


「脳人間」の比喩 【のうにんげんのひゆ】

 「すばらしき「脳人間」の世界――それは究極の〈無限の生〉、「意のままになる生」が実現した世界である。身体を捨てて脳だけになった人間は、自律的に制御された〈社会的装置〉に、チューブと電極を介して文字通り接続される。……この「脳人間」の物語は、はたしてわれわれに何を訴えかけているのだろうか。それは究極の〈自己完結社会〉に至って、われわれは確かに、あの理想と現実とをめぐる「無間地獄」の苦しみから解放されうるということである。」 (下巻 125)

 〈無限の生〉の敗北を超克するために、いっそのこと〈生の自己完結化〉〈生の脱身体化〉を極限まで推し進め、「意のままにならない他者」「意のままにならない身体」からの完全解放を試みる思考実験のひとつで、「通販人間」(生産活動を自動化させ、必要なものをすべてドローンで自宅に届けてもらうことによって、社会生活をバーチャル空間(メタバース)内で完結できるようになった社会)から一歩進んで、身体を捨てて脳だけになり、完全自動化された生命維持装置と情報機器に直接接続されることで、「人間的〈生〉」を完全にバーチャル空間へ移行させた社会のこと。

 そこでは事実上、人々は生まれながらの身体的な特徴や属性(〈有限の生〉の第二原則=「生受の条件の原則」)のみならず、臭い、汚い、きつい、痛いといった身体的なわざわい、怪我、病、障碍、老い、衰弱といった身体的な苦痛(有限の生〉の第一原則=「生物存在の原則」)から解放され、さらにはバーチャル空間内で自分好みのバーチャル人格とだけ〈関係性〉を構築することで、嫌な人間、馬の合わない人間との〈共同〉(〈有限の生〉の第三原則=「意のままにならない他者の原則」第四原則=「人間の〈悪〉とわざわいの原則」)からも解放される。

 こうして人々は、究極の意味において〈自立した個人〉「自由な個性の全面的な展開に到達し、恒久的な「自己実現」を通じて、ついに悲願であった「こうでなければならない私」を手に入れることになる。

 とはいえ、脳自体もまた「存在論的抑圧」になりうることを考えれば、「脳人間」は最終的には脳さえ捨てて、情報機器に漂う完全な「思念体」となるだろう。

 ここにおいて「〈ユーザー〉としての生」が最高潮に達し、人々は本当の意味において「自由」になる(「存在論的自由」)。そこではどのような存在になることも可能で、どのような刺激や快楽であっても望めば手に入る。ところがそうした「意のままになる生」の極地にあって、「脳人間」たちは最初のうちこそ楽しめるが、やがて体躯と虚無とに耐えきれなくなり、やがて自分自身で生命維持装置の電源を切ることになる(「自殺の権利」)。

 〈存在の連なり〉から自立し、「この私」だけの意のままになる世界にあって、人間は何ものかになることも、何かを実現することにも、つまりは生きる意味そのものを見いだせなくなるからである。


 

 

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