ポストヒューマン時代についての諸々

総合人間学会シンポジウム

 先日、総合人間学会という場所で、シンポジウムの登壇者として報告を行いました。

 タイトルはポストヒューマン時代が揺がす人間らしさ――思想・哲学の視点からということで、この間書いてきた、情報技術、ロボット/AI技術、生命操作技術等の現実が人間存在に与える影響についてシンプルにまとめたものです(ともにご登壇くださった、木村武史先生(筑波大学)、久木田水生先生(名古屋大学)、中村俊先生((株)コルラボ)、ありがとうございました)。

 また、翌日はワークショップにて「ポストヒューマン時代」をめぐる哲学/思想的諸問題について――「無用者階級」、「脳人間」、〈自己完結社会〉、〈無限の生〉の「世界観=人間観などの視点を中心に」という形で、この問題をこの間新著にまとめてきた論点と絡ませる形で報告させていただきました(コメンテーターを担ってくださった、熊坂元大先生(徳島大学)、竹中信介先生(道徳科学研究所)、亀山純生先生(東京農工大学名誉教授)、ありがとうございました)。

 上記のリンク先に、図を除いたPPのスライドをご覧いただけるようにしましたので、興味のある方は覗いてみて下さい。


ポストヒューマン時代についての論考

 あわせてシンポジウムに先立ち、このあたりの問題意識を大雑把にまとめた論考「ポストヒューマン時代」における人間存在の諸問題――〈自己完結社会〉と「世界観=人間観」への問い『総合人間学』、総合人間学会、第16号、 pp.162-190)も発表されました。新著の導入にもなる論文だと思いますので、こちらもぜひご参照ください。

 「「ポストヒューマン時代」における人間存在の諸問題――〈自己完結社会〉と「世界観=人間観」への問い」

 1.はじめに
 2.「ポストヒューマン時代」のリアリティ

  (1)現代科学技術がもたらすもの
  (2)「ポストヒューマン時代」をどう評価するのか
 3.〈自己完結社会〉への目なざし
  (1)「持続可能」で、〈自己完結〉した社会の成立へ
  (2)「ポストヒューマン時代」のどこに矛盾が存在するのか
 4.「世界観=人間観」への着目
  (1)〈無限の生〉の「世界観=人間観」
  (2)〈無限の生〉の「無間地獄」
  (3)”個人化”される〈無限の生〉
  (4)「脳人間」の世界
 5.おわりに――〈有限の生〉の「世界観=人間観」を考える

 以下、冒頭の部分について転載しておきます。

 ビッグデータ、AI、ロボット、生命操作などの進展を通じて、われわれはいまや、身体と機械、脳とAI、治療と人体改造の境界が曖昧となっていく時代を生きている。それは、これまで自明とされてきた「人間」の概念が通用しなくなる時代という意味において、「ポストヒューマン時代」と呼ぶことができるだろう。そして総合人間学の中心的な問いが、まさしく「人間存在の本質とは何か」というものであるとするなら、この時代の局面をどのように理解し、どのように意味づけるのかということは、総合人間学においても避けて通ることができない重要な課題となるはずである。

 本論では、まず前述した諸々の「ポストヒューマン時代」の科学技術について、具体的に見ていくことからはじめよう。そしてその技術的現実が、われわれをいかなる世界へと向かわせつつあるのかについて、R・カーツワイル(R. Kurzweil)やY・ハラリ(Y. Harari)の分析を交えつつ、さらには独自に〈自己完結社会〉というキーワードを用いて考察することにしたい。〈自己完結社会〉とは、人々が高度に発達した社会システムに深く依存することによって、生身の他者と関わっていく必然性、生身の身体とともに生きる必然性を失っていく社会のことを指している。

 確かに「ポストヒューマン時代」の到来は、しばしば「人間疎外」や「管理社会」といった枠組みの延長線上で語られることが多いだろう。しかし事態は、それほど単純なものとは言い難い。この問題の難しさは、その矛盾の本質が、自由、平等、多文化共生をはじめ、われわれがこれまで希求してきた人間的理想と密接に関わっていることにある。端的に述べれば、われわれが信じる「あるべき人間(社会)」の理念に即すと、「ポストヒューマン化」は批判の対象になるどころか、その理想を実現するためにこそ、われわれは「ポストヒューマンな存在」になるべきだ、との主張が導かれうるからである。

 議論の後半では、こうした矛盾がなぜ生じるのかについて、われわれの認識や思考の背後にあって、それを加速させている〈無限の生〉の「世界観=人間観」というものから読み解いてみたい。〈無限の生〉とは、「意のままになる生」のことを指し、その「世界観=人間観」のもとでは、人間の使命とは、「意のままにならない生」の現実を克服し、それをあるべき理念に相応しい形に改変していくことであると理解される。そしてそこでは、その理想の形式が“現実否定”に基づくゆえに、ある種の「無間地獄」をもたらす様子について見ていこう。注目すべきは、今日においては、それが「あるべきこの私の生」と「現実のこの私の生」をめぐる矛盾となって現れているということである。ここから本論では、われわれが新時代の社会システムや科学技術を通じて「意のままにならない身体」や「意のままにならない他者」から解放されるほどに、かえって苦しみを深めていくメカニズムについて見ていくことにしよう。

 〈無限の生〉がもたらす理想の矛盾は、おそらくわれわれが身体を完全に捨て去った「脳人間」になるか、あるいは脳さえ捨て去った「思念体」になるまで続くだろう。その究極の“ユートピア”においては、人間存在の「自己決定」と「自己実現」は、かつてない水準へと上昇する。われわれはそこで、理念が指し示す「完全な人間」に到達するのである。しかしそこには、人間など、もうどこにも存在していない。このことは何を意味するのだろうか。本論では、順を追って説明していくことにしよう。

       

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