単著『〈自己完結社会〉の成立』を送り出して以来、同書の内容が現代の思想状況や、現代思想のキーワードとどのような関連性を持つのかについて執筆を続けています。
これは昨年の秋に書いた原稿ですが、今回は、リベラルな価値を擁護しようとする人々と、それを否定しようとする新反動主義と呼ばれる人々をめぐって、その対立軸にポストヒューマンをめぐる問題がどのように絡んでいるのかということに焦点を当てています。
一般的に新反動主義(N・ランドなど)が「ポストヒューマンな存在」(=トランスヒューマン)になることに対して好意的であることはよく知られています。ですが、その反対側に位置づけられるリベラルな価値体系の擁護者についても、その枠組みの行きつく先は「ポストヒューマンな存在」(=トランスヒューマン)であるという点では変わらないということ、またその背景には、人間の現実を否定して、「あるべき人間(社会)」の理念によって現実を塗り替えようとする、より根源的な形而上学(これを私は〈無限の生〉の「世界観=人間観」と呼んでいます)がある、ということを指摘するのが本論の趣旨となっています。
「ポストヒューマン時代」における「世界観=人間観」の問題について――現代科学技術とリベラルな価値体系、「人間性」をめぐる諸問題」 1.はじめに 2.「ポストヒューマン時代」の到来 (1)「技術的ユートピア」と「技術的ディストピア」の狭間で (2)「人間性」への問い 3.リベラルな価値体系をめぐる対抗軸 (1)リベラルな価値体系を否定する新反動主義 (2)リベラルな価値体系を擁護する「ポストヒューマニズム」 4.〈無限の生〉の「無間地獄」 (1)リベラルな価値体系の否定者と擁護者にまたがる奇妙な共通点 (2)近代を支える〈無限の生〉の「世界観=人間観」 (3)「現実を否定する理想」と「無間地獄」 (4)「ポストヒューマン時代」における〈無限の生〉 5. おわりに――〈有限の生〉からの再出発 (『共生社会システム研究』、共生社会システム学会、 Vol.16 No.1、pp.213-232)) |
以下、サマリーを掲載しておきます。これが論文として成功しているかどうかはいまいちなのですが、テーマとしては重要であると考えています。
現代科学技術の進展とともに、身体と機械、脳とAI、治療と人体改造の境界が曖昧となり、われわれはこれまで自明とされてきた「人間」の概念が通用しなくなる「ポストヒューマン時代」を迎えている。 本論では、「ポストヒューマン時代」の本質を探るために、新反動主義やポストヒューマニズムといったリベラルな価値体系をめぐる対立に着目する。というのもその対立の根幹は、西洋近代に成立した「人間性(humanity)」をめぐる異なる理解の仕方にあり、「ポストヒューマン時代」とは、まさしくその「人間性」の基盤となるものを技術的に操作していく時代のことを指しているからである。 奇妙なことに、リベラルな価値体系の否定者も、擁護者も、技術によって自らを改変し、自らが「ポストヒューマンな存在」となることを肯定する。それは両者が、いずれも現実の外側にある「あるべき人間(社会)」という理念から出発し、現実そのものを理念によって塗り替えるべきだとする、〈無限の生〉の「世界観=人間観」を共有しているからである。 しかし〈無限の生〉の「世界観=人間観」は、「あるべき人間(社会)」を絶えず求め、現実の人間(社会)を絶えず否定し続けなければならない。そしてその延長として、われわれはますます身体を捨てて「ポストヒューマンな存在」となることが望まれる。だがそれは「無間地獄」であるがゆえに、決して終わることがない。「ポストヒューマン時代」に求められているのは、理念から出発する〈無限の生〉ではなく、あくまで現実から出発する〈有限の生〉の「世界観=人間観」である。すなわち人間が人間である限り引き受けなければならないものとは何か、その存在論的な原点に立ち返り、その意味に再び目を向けるのである。真の意味での近代批判は、ここから始まるだろう。 |