「思念体」の研究(序論)――メタバース、アンドロイド、サイボーグ化が拓く新しい世界観とその問題意識

 最近、これまで〈自己完結社会〉論で「思念体」や「脳人間」という概念を使って述べてきたことを、「「思念体」の研究」という形でひとつの研究テーマとして構想できないかと考えています。

 まず、ここでの「思念体」とは、AI、サイボーグ、メタバース、アンドロイドなど、21世紀の技術的環境によって生みだされることになる想像上の人格のことを指しています。

 おそらく現在の私たちの世界観においては、人間の本質はこの物理的な身体にあり、そうした身体的な私がインターネットやVR空間といった「仮想世界」に関与して行くと想像されています。
 つまり「物理世界」にこそ“本当の現実”や、”本当の私”が存在しているのであって、インターネットやVR空間を含んだ「非物理世界」がどれほど精巧に見えようと、それは本来の現実ではなく、またそこに存在する私は、あくまで「物理世界」にいる本来の私の影のようなもに過ぎない、といったようにです。

現在の世界観

 「「思念体」の研究」が想定しているのは、科学技術が進んでいくと、こうした世界観に、ある種の逆転現象が生じるのではないか、あるいは、こうした世界観とは異なるまったく新しい世界観が成立してくるのではないか、ということです。

 それは、人間の本質が、身体から切り離された精神体としての「思念体」にあって、その「思念体」としての私が、「物理世界」の身体やロボットアバター、あるいは「非物理世界」のVRアバターという形で、現実世界に具現化するという世界観です。
 ここでは「物理世界」と「非物理世界」が現実として同等の価値や意味を持つものとして理解されます。そして身体的な私の存在が、数あるさまざまなアバターのうちの一つに過ぎないとして理解されているところがポイントです。

「思念体」を中心とした新しい世界観

 下のリンク先の記事では、以上の問題意識のもと、そうした世界観がなぜ成立しうるのか、またそうした世界観が私たちにどのような問いを投げかけるのか、ということについて書いてみました。

 よろしければ読んでみてください。

「思念体」の研究(序論)――メタバース、アンドロイド、サイボーグ化が拓く新しい世界観とその問題意識

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【書評】『〈自己完結社会〉の成立』その②

 筆者が学生時代から大変お世話になった倫理学者の亀山純生先生(東京農工大学名誉教授)が、拙著『〈自己完結社会〉の成立』に関する書評を執筆してくださいました(「書評・レビュー」ページから他の書評もご覧いただけます)。

【書評】亀山純生「現代日本の〈閉塞社会〉転換への斬新な問題提起――上柿崇英著『〈自己完結社会〉の成立――環境哲学と現代人間学のための思想的試み』(農林統計出版、2021)を読む」『唯物論研究ジャーナル 2023』、唯物論研究協会

 本書で行われている問題提起の核心部分からはじまり、今後期待される課題に至るまでを、幅広くかつ的確な形で言及してくださっています。

  特に、本書の特徴と意義として、

  1. 人間存在のあり方に注目して、21世紀日本で本格的に姿を現わしたAI技術による高度情報・消費社会を独自に〈自己完結社会〉の成立と特徴づけたこと

  2. (本書で提起された)〈生の自己完結化〉と〈自己完結社会〉は戦後日本社会が理想としてきた〈自立した個人〉による自由な個人主義社会の歴史的完成態だと明らかにしたこと

  3. 〈自己完結社会〉の成立によって顕在化した生の矛盾と生の苦しみに注目し、それ故に〈自己完結社会〉の脱却の必要を示すとともに、その焦点としてその背後の近代的世界観=人間観の転換を、全く独自の仕方で提起すること

 という3点を抽出していただきつつ、それが戦後日本の社会理論や現代哲学研究の立ち位置とどのような関係にあるのかについて述べてくださっています。従来の学術的タームと本書をつなぐ貴重な記述となっています。

  また、本書から浮かびあがる課題として、

  1. 有益な議論を展開するために、すでに共有化されている既成の哲学・社会哲学の概念に対する比較検討にもとづいた概念の彫琢がいっそう求められること

  2. 〈自己完結社会〉自体の否定すべき現実を、単に世界観の問題として論じるにとどまらず、具体的な社会的転換と社会構造の変革としてどのように展開させるかという点が本書には欠けており、その点が惜しまれること

  3. 社会変革という視点に立った場合、すでに「自己完結」した人間は〈無限の生〉の人間観を全面的に肯定しているため変革の主体にはなりえない、すると社会変革は不可能という結論となり、議論が行き詰まるという矛盾をどう考えるのか

  4. 世界観の転換として〈有限の生〉の世界観を強調したところで、結局は、社会構造の転換なき諦観主義・心理転換主義と同じであるとの批判にはどのように応答ができるのか

 という点を提起してくださっており、いずれも本書を考えるうえで重要な指摘だと思います。

 本書の意図をこれほど深く読み込み、学問的な見地から論じてくださった文献は、本書評がはじめてのものだと思います。時間をかけて本書評を執筆してくださった亀山先生には、ここで改めて感謝を申し上げます。


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ポストヒューマン時代とヒューマニズム

 単著『〈自己完結社会〉の成立』を送り出して以来、同書の内容が現代の思想状況や、現代思想のキーワードとどのような関連性を持つのかについて執筆を続けています。

 今回執筆したのは、以前ポストヒューマン時代についての諸々でご紹介したテキスト(「ポストヒューマン時代」における人間存在の諸問題――〈自己完結社会〉と「世界観=人間観」への問い)の続編で、情報技術、ロボット/人工知能技術、生命操作技術がもたらすポストヒューマン時代について、ヒューマニズム自己決定の理念、ミクロな権力との関連について取りあげたものです(以下の表紙やリンク先から全文をご覧いただけます)。

  
上柿崇英(2023a)「ポストヒューマン時代」と「ヒューマニズム」の亡霊――「ポストモダン」/「反ヒューマニズム」状況下における「自己決定する主体」の物語について【テキスト版PDF】『総合人間学』、総合人間学会、第17号、 pp.34-63)

 本論で言う「ヒューマニズム」とは、人間は、自らを取り巻く世界を作り替えることによってこそ幸福になれる人類は、理性の力を通じて自分自身を解放し、それによってあるべき本来の形、究極の普遍的な何者かに到達するといった、「普遍的な人間」というものに投影された強力な信念、ある種の「信仰」のことを指しています。

 こうした「ヒューマニズム」は、人文科学の主流の考えにおいては、すでに時代遅れなものと考えられてきました。例えばポストモンダンの立場からは、「ヒューマニズム」は「大きな物語」にすぎず、ある種の幻想にすぎなかったと理解されます。あるいはフェミニズムやポスト植民地主義の立場(「反ヒューマニズム」)からは、そうした人間の理念が、男性中心主義やヨーロッパ中心主義の産物にすぎず、そもそも普遍的な人間を想定すること自体が問題であるという形で理解される、といった形です。

 ところが今日、科学技術を通じて現れつつある「ポストヒューマン」的な何ものかは、人間そのものを作り替えることによって、私たちをバージョンアップさせていくことになります。さまざまな社会的な要請を意識した上で、より「あるべき人間」に接近していくのです。このことは、実のところ、究極の「ヒューマニズム」を意味するのではないか、別の言い方をすると、実のところ私たちは「ヒューマニズム」の外部に出たことなど一度もなくて、いまなお結局は”普遍的な人間”という夢を追い続けているのではないか、というのが本論の大枠の話です。

 実はこの話題は、今日の「自己決定」の問題とも深く結びついています。まず、ポストモダンや「反ヒューマニズム」が人文科学の主流となる時代を迎えて以来、私たちは”絶対的な何ものか”を共有することがきわめて難しくなりました。そうした時代状況において、唯一人々に共有可能だと思われる原則こそが、実は「自己決定」の原則なのであり、そうした意味において「自己決定」は、ポストヒューマニズムの倫理を象徴するものとも言えるからです。

 そして今日の「自己決定」の理念の中心にあるのは、一言で言えば、「存在論的抑圧」を最小化し、「存在論的自由」を最大化させること、言い換えると、自身が何ものであるのかを不本意な形で決定されず、自ら定義できること、さらにはそのことによって不利益を被ることなく、またその過程で不本意に加入されることもないこと、と理解することができると思います。

 ポストモダンの時代において、特定の絶対的な「正しさ」は主張できないかもしれませんが、こうした意味での「自己決定」が高められ、保障されることについては、誰もが異論はないはずだ、ということに他なりません。

 ただし、この原則を推進するのであれば、私たちは必然的に、人々が「ポストヒューマンな存在」になっていくことを肯定しなければならなくなります。なぜなら私たちの「自己決定」を阻む最大の障壁とは、「意のままにならない身体」や「意のままにならない他者」によって生みだされる根源的な不平等や根源的な抑圧であって、「ポストヒューマンな存在」になることは、まさしく私たちがそうしたものから解放されることを意味しているからです。

 「ヒューマニズム」の批判からでてきたはずの「自己決定」の原理が、「ポストヒューマン時代」になって、まさしく「自己決定」の原理を尊重するがゆえに、「ポストヒューマン」という形の”普遍的な人間”へと至る――ここには「ポストヒューマン」という形の究極の「ヒューマニズム」を実現する、というおそるべき転倒があるわけです。

 なお、この論文を通じて筆者が表現したかったこととして、もうひとつ、一連の私の議論とフーコー流の権力論(ミクロな権力をめぐる議論)の違いを示すという目的がありました。

 周知のようにM・フーコーは、国家権力に代表されるマクロな権力とは区別する形で、人間の関係生にあまねく遍在し、私たちに何が正常であり、何が正常でないのかを悟らせるような何ものか、あたかも自身が望んでいるかのように欲望を喚起させ、人々に自ら進んで自己点検するように仕向けるような何ものかとして、ミクロな権力の概念を提示しました。わかりやすく言えば、人々を抑圧する規範や標準や境界線の問題です。

 私の議論では、社会システム(〈社会的装置〉と表現されます)への依存が生みだす人々の生きづらさが問題になりますので、しばしばフーコー流の権力論と同じ枠組みで議論していると誤解されることがあるのです。

 フーコー流の権力論はさまざまな形で応用されていますが、筆者が一番気になるのは、そこで特定のミクロな権力がもたらす抑圧の構造を明らかにする(可視化する)のみならず、しばしば「あらゆるミクロな権力から解放されることによってこそ人間は真に自由になる」、「人間は、少しずつでも着実にミクロな権力から解放されなければならない」との暗黙の理念を前提として議論がなされているように見えることがあるということです。

 確かに私たちは、古い規範を解体し、規範の形を時代に合うよう作り替えていく必要があります。しかしその目的は、あくまで境界線を引き直すことであって、ミクロな権力それ自体から人々が解放されることではありません。言い換えると、人間社会から何かを定める規範や標準や境界線それ自体が消えることなど決してありません。多様性の時代に問われているのは、こうした人間を規定する何ものかそれ自体と、私たちがどのように折り合いをつけていくのかということだからです。

 もしも私たちがミクロな権力それ自体からの解放を目指すとするなら、私たちは決して実現することのない理想を追い求めて、かえって終わりのない苦しみの自縄自縛(「現実を否定する理想」「無間地獄」)に陥るでしょう。ところが「ヒューマニズム」のみならず、「自己決定」の理想も、「ポストヒューマン時代」の科学技術も、そうした自縄自縛の方向性へとますます私たちを向かわせているのです。ここに「ポストヒューマン時代」を考えるべき重要な問題がある、というのが筆者の立場に他なりません。

 以上、見所について概説させていただきましたが、興味を持ってくださった方はぜひ一度ご覧いただければと思います。

「ポストヒューマン時代」と「ヒューマニズム」の亡霊――「ポストモダン」/「反ヒューマニズム」状況下における「自己決定する主体」の物語について

 1.はじめに――前稿からの継承と本稿の問題意識
 (1)前稿までの議論の確認
 (2)本稿の目的と課題

 2.「自律した主体」と「ヒューマニズム」
 (1)「自律した主体」の成立
 (2)「自律した主体」をめぐる挫折と葛藤

 3.「自己決定する主体」と「反ヒューマニズム」
 (1)「大きな物語」の終焉と、「人間」の終焉
 (2)「反ヒューマニズム」がもたらした「理念の間隙」
 (3)「反ヒューマニズム」の出口戦略としての「自己決定する主体」
 (4)根源的不平等と「存在論的自由」の不可能性

 4.「ポストヒューマン時代」と「ヒューマニズム」の再来
 (1)「トランスヒューマニズム」と「ポストヒューマニズム」
 (2)「思念体」としての「ポストヒューマン」と、「ヒューマニズム」の再来
 (3)「ヒューマニズム」の亡霊

 5.おわりに――今後の議論に向けて

  以下、冒頭の部分について転載しておきます。

(2)本稿の目的と課題

 以上の議論を踏まえたうえで、本稿が試みたいのは、こうした逆説を孕んだ「自己決定」をめぐる人間的理想に再び焦点をあわせ、それがいかなる思想的な経緯のもとで成立してきたのかを探ってみることである。そして本稿では、その分析をもとに、「ポストヒューマン時代」が問いかけている問題について別の角度から迫ってみることにしたい。

 手がかりとなるのは、「ヒューマニズム」から「反ヒューマニズム」への移行という思想史上のパラダイムシフトである。もともと「自己決定」の概念は、「自律した主体」や〈自立した個人〉の概念と深く結びついており、それらを下から支えていたのが「ヒューマニズム」であった。「自律した主体」とは、人々が無知や迷信、権威や権力といった外力から解放され、自ら思考し、自ら判断できる存在になるということを意味している。またそのためには、人々が一定の経済的な独立性と、外力に抗う精神性を求められるため、そうした主体は〈自立した個人〉とも呼ばれてきた。そして人間とは、理性を用いてさまざまな桎梏からおのれ自身を解放し、「あるべき人間(社会)」に向かって絶えず進歩し続ける存在であること、その確信こそが「ヒューマニズム」であり、「自己決定」の概念は、こうした枠組みによって支えられてきたのである。

 ところが、今日われわれが用いている「自己決定」の概念には、こうした枠組みからはいくつかの点で隔たりがある。ひとつは、その主体像が徹底して価値中立的かつ個人主義的なものとなっていること、もうひとつは、その力点が“意志のあり方”というよりも、“存在のあり方”をめぐって語られるようになっていることである。端的に言えば、自身が何ものであるのかを自ら定義できること、それによって不利益を被ることなく、その過程で不本意に介入されることもない、それが現代的な意味での「自己決定」の特徴なのである。

 こうした「自己決定」概念が形作られてきた背景には、おそらく「ポストモダン」の到来と、「ヒューマニズム」への批判として登場した「反ヒューマニズム」の存在が深く関わっている。そこでの問題提起とは、第一に、人類の進歩は普遍的な真理などではなく、ひとつの「大きな物語」にすぎなかったということ、第二に、われわれが「主体」と呼んできたものは、関係性に張りめぐらされた「ミクロな権力」による訓練の結果、換言すれば、不可視化された強制や排除の産物にすぎなかったかもしれないということ、第三に、そこでの「人間」とは、実のところ五体満足で健康なヨーロッパの白人男性でしかなく、そもそも普遍的な「人間」などというものを想定すること自体が間違っていた、といったことである。

 しかし「ポストモダン」や「反ヒューマニズム」の方法論には、大きな問題が含まれていた。それは、この新しい潮流が「ヒューマニズム」を打ち倒した代わりに、われわれが向かうべき指針までをも解体させてしまったことである。ただし、ここにはひとつだけ“出口”が存在していた。それは、問題の核心部分を「存在論的な抑圧」――諸個人の存在のあり方を“かくあるべき”と抑圧、強制するもの――の存在に定め、「存在論的な自由」――諸個人が自身のあるべき姿を自ら定義することができる――の拡大こそがわれわれのなすべきことであると理解することである。そうすれば、「反ヒューマニズム」の問題提起と矛盾することなく、われわれは万人にとって受け入れ可能なビジョンを手にすることができるからである。

 こうして、前述した価値中立的かつ個人主義的な「自己決定」の概念が成立してきた。ところがこの新しい人間的理想こそが、まさしく「ポストヒューマン時代」の到来によって、新たな矛盾を顕在化させつつあるのである。実は「自己決定する主体」のビジョンには、別の問題が含まれていた。それはいったん「存在論的自由」の獲得という目標が定位してしまうと、その理想は徐々に拡大解釈されていき、最終的には「意のままにならない他者」そのもの、「意のままにならない身体」そのものに由来する根源的な不可能性や根源的な不平等に行きついてしまうことである。ここで改めて注目すべきは、「ポストヒューマン時代」の技術の潜在力とは、まさしく「意のままにならない他者」から、そして「意のままにならない身体」からわれわれを解放するという点にあったことである。つまり「ポストヒューマンな存在」になることは、「自己決定する主体」のビジョンと完全な整合性を持っている。ならばその人間的理想を実現するためにこそ、われわれは「ポストヒューマンな存在」になるべきではないだろうか――。こうしたわけで、われわれは前稿で導かれた主張にまたもや直面することになるのである。

 しかし以上の分析を経てきたわれわれには、前稿では踏み込めなかった新たな逆接の存在に光をあてることができるだろう。それは、いまや技術を通じて出現しつつある何ものかが、あらゆる存在から浮遊し、純化された精神体のごときものに収斂していくということ、その意味において、それはある種の普遍的な人間に向かっていくという逆説である。このことは何を物語っているのだろうか。本論では、その意味について明らかにしていくことにしよう。

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「書評・レビュー」のページを公開しました

 拙著『〈自己完結社会〉の成立』に関する「書評・レビュー」ページを公開しました。このページでは、同書について取りあげてくださった文献、書評、レビューなどについてご紹介していくつもりです。

 第一弾は、環境哲学/メディア論の研究者で、現代人間学の共同研究者でもある吉田健彦さんが書いてくださった書評です。

【書評】吉田健彦「哲学の再生に向けた果敢な試み――上柿崇英『〈自己完結社会〉の成立』を読む」『環境思想・教育研究』、環境思想・教育研究会、第15号、pp.108-110

 本書の最終的な到達点が「世界観=人間観」の捉え直しにあるという点を汲み取ってくださり、また現代社会や人間存在について論じるうえで、本書が敢えてひとつひとつの基礎概念から独自に整備していったことの意図、そして本書といわゆる「疎外論」の違いについて言及してくださっています。

 「疎外論」とは、簡単に述べますと、現代社会の特定の問題(病理)を分析するにあたって、資本制社会の構造や科学技術の影響など、何らかの外的な要因によって、人間本来の形(性質)が「歪められた」ことによって生じていると考えるアプローチです。

 本書の主題となる〈自己完結社会〉が、社会の変容に伴って「人間本来の形(性質)が歪められたことによって生じた病理」であると見なせるのかどうか――このことは学術的には重要な論点で、同書ではこの問題について【下巻:補論二】「学術的論点のための五つの考察」で詳しく述べています。

 著者の立場は、〈自己完結社会〉がある種の「病理」的側面を備えているとはいえ、人間の存在様式は常に変化し続けるものであり、「疎外論」のように「人間本来の形(性質)が歪んだ」という説明にはならないというものです。

 本書では、人間は、生物存在としての「ヒト」の枠組みに明確に規定されつつ、その生物学的な本性のうちに、人為的な「社会環境」を媒介として、自らの存在様式を変容させることが含まれていると解釈されます。そのため「人間本来の形(性質)」というもの自体が想定できない、ということになるわけです。(ただし、現代の人間が置かれた状況に問題にすべき「病理」がない、ということにはなりません。このあたりのニュアンスは、吉田健彦さんの言う「必然的異常社会」の説明が参考になると思います)

 加えて重要なのは、本書では、「人間本来の形(性質)」を想定するアプローチが、かえって「あるべき人間(社会)」の幻想を生みだし、その理念に現実世界が振り回されるという事態を問題視しているという点です。この問題は、本書では「現実を否定する理想」、ないし〈無限の生〉の「世界観=人間観」が抱える問題として【最終考察】の中心的なテーマとなります。こうした意味からも、本書のアプローチは「疎外論」とは区別して読んでいただきたいと思っております。


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