『鬼滅の刃』に見る、〈救い〉と〈信頼〉の物語」

 少し異色かもしれませんが、先日『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴、集英社)をテーマにしたエッセイを書き、掲載されました(リンク先の上から3番目の記事です。記事への直リンクはこちら。)。

 実は、私がこの作品を本当の意味で知ったのは、世間の認知よりもだいぶ遅れて、2021年の夏頃、『劇場版『鬼滅の刃』無限列車編』のテレビ放送を機に、これまで放送されたアニメ版(立志編)が一気に再放送されたときでした。

 作品の名前と世間の人気は知っていましたが、ネットをはじめ、とにかくプロモーションが目についたことから、当初は警戒し、あくまで現代文化の研究の一環として視聴することになりました。しかし結果的に、この作品の人気が本物であると実感することになったのです[1]

 細かくはエッセイに書いたのですが、この作品が魅力的なのは、単なる漫画作品としての魅力を超えて、作品の背景にある“人間が生きること”の本質に関わる思想や世界観、そしてメッセージが視聴する人々の心を打つからだと感じています。加えてそれは、きわめて同時代的な側面もあって、文化論的にも意味がある作品だったと感じています[2]。

 もちろん、全員にこの作品のメッセージが刺さるわけではないかもしれません。というより、私が個人的に、作者の思想や世界観に共鳴する人間であった、という側面も強いのかもしれません。なぜなら、私の新著を知っている方は尚更だと思いますが、この作品の主題やメッセージと、私が10年かけて、〈役割〉、〈信頼〉、〈許し〉、〈救い〉、〈美〉、そして〈存在の連なり〉という概念を使って表現しようとしてきたものが、多くの部分で重なるところがあるからです[3]

 エッセイでは、作中に出てくるキーワードや台詞をコラージュさせつつ、私が特に重要だと思う論点を、私の〈思想〉や「世界観=人間観」とシンクロさせながら書いています。文中で「」書きになっていないものでも、作品のキーワードや台詞が隠れていますので、作品を好きな方は、ぜひ探してみて下さい[4]

 いずれにしても、『鬼滅の刃』は本当に良い作品なので、多くの方にその魅力を知って欲しいと思います。最後に、この作品を世に出してくださった吾峠先生に、改めて感謝を申し上げたいと思います。


[1] 実を言うと、テレビ再放送で、たまたまその時間に放送されていた数話分を視聴したものの、その時には、戦闘シーンが中心の回だったためか、作品の魅力に気づくには至りませんでした。しかしその後、ストリーミングで第1話からちゃんと視聴してみようという気になり、「最終選別」まで視聴した段階で「これは!」と思い、「立志編」をすべて視聴して、この作品の本質にようやく気づくことができました。その後原作のコミックを揃えてすべて読みました。この作品を数話だけ視聴して、評価をするのはおすすめできません。私が「立志編」のなかで忘れられないのは、累の着物を踏みつけた冨岡に、炭治郎が「足をどけてください」と言うシーン(コミック第5巻185頁)です。ここで何か刺さるものがある方は、本作品を最後まで読んでみることをおすすめします。必ず読んで良かったと思うはずです。

[2] このあたりもいつかちゃんと書いてみたいですが、私が持った感想の一つは、この作品が文化論でいうところの「セカイ系」や「決断主義」を超えるものとして位置づけられるのでは、ということでした。実は同じタイミングで、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』も視聴していたのですが、そのコントラストもあったと思います。

[3] エッセイでは、字数制限のために取り入れられませんでしたが、本当は〈役割〉や〈許し〉や〈存在の連なり〉といった概念を引き合いに出して書いてみたいこともありました。

[4] 作品を意識したワードにすべて「」を入れてしまうと、「」だらけになって読みにくいため、特に引用として強調したいものを選んで「」書きとしています。

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