すっかり更新しなくなったブログではありますが、2017年は『現代人間学・人間存在論研究』の第二号を完成させることに全力を向けてきました。
第二号では、これまで取り組んできた〈生の自己完結化〉1 と〈生の脱身体化〉2 という問題について、〈環境哲学〉と〈生の分析〉という二つの方法論によって読み解くことを試みました。ここで書いた内容は、第一号以外にもすでに以下でもざっくりとは述べてきた内容なのですが、今回はそれを徹底的に行ったということだと思います3。
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例えば、〈生の自己完結化〉と〈生の脱身体化〉に直面した現代社会を、600万年にも及ぶ人類史における第三の「特異点」=「〈人間〉と〈社会〉の切断」と位置づけ、今日われわれが体験している「関係性の病理」や「〈生〉の混乱」が人類史の中でいかなる意味を持っているのかについてかなり踏み込んで論じました。他にも「集団的〈生存〉」や「根源的葛藤」、「〈ユーザー〉としての生」といった概念の導入し、「〈生〉の舞台装置」と〈社会的装置〉の違いとは何なのかについて論じました。
論文の最後では、「無限の〈生〉」や「有限の〈生〉」といった、本論の結論に関わる重要な概念も導くことができました。これからは現在準備している「第三号」を通じて、改めて一連の事態の意味を、「関係性」や「共同」という文脈で論じていきたいと思います。そして、「有限の〈生〉」のもとで人間が生きるとはいかなることかについて、触れることになると思います。
10年かかったこの思想の構築も、いよいよ終着点を迎えます。2018年は山場となりそうです。
(第二号の本文は、リンク先から読むことができます)
『現代人間学・人間存在論研究』 第一期 第二号
特集 人間をふちどることについて
- 『現代人間学・人間存在論研究』発刊によせて
- 『現代人間学・人間存在論研究』第二号のための序(上柿崇英)
- “人間”の存在論的基盤としての〈環境〉の構造と〈生〉の三契機―環境哲学と〈生〉の分析からのアプローチ(上柿崇英)
- “環境と存在―人間の学としての人間存在論のための試論(増田敬祐)
- 粘土板から石英ストレージへ―無限と永遠を問い得る場につての存在論的/メディア論的分析(吉田健彦)
脚注
- 〈生の自己完結化〉とは、今日のわれわれが、科学技術がもたらすさまざまな人工物と、官僚機構、市場経済、情報世界(ネット世界)が複雑に融合した巨大な「インフラ」――本書ではそれを〈社会的装置〉と呼ぶ――に依存するようになることによって、”生きる”ことに対して、実質的に”他者”を必要としなくなっていく事態のこと。
- 〈生の脱身体化〉とは、、科学技術がもたらす直接的、間接的な影響によって、”有限な身体”というものが、われわれの”生”において意味を失っていく事態のこと。
- 上記のうち、一番わかりやすいのは、上柿崇英(2016b)「持続可能性と共生社会――〈人間の持続〉と「自己完結社会」という視座」(尾関周二/矢口芳生監修、亀山純生/木村光伸編 『共生社会Ⅰ―共生社会とは何か』 、農林統計出版、pp.119-136)だと思います