環境加速主義についての覚書

 これまで考えてきたことを、最近、環境加速主義(environmental accelerationism)という概念を用いて再構成しようとしています(→ noteバージョン)。

 ここで言う環境加速主義が、本家の加速主義とどのような関係にあるのかという点は、もう少し研究が必要なのですが、今年中に論文に仕上げたいと思っています。


1.環境加速主義の定義

  • 環境加速主義(environmental accelerationism)とは、現在の社会や経済の仕組みを基本的には維持したまま、科学技術の力によって地球環境を管理、制御、コントロールし、それによって「地球1個分」という地球生態系(自然環境)の限界を乗り越えていこうとするひとつの環境思想のことを指す。
  • 環境加速主義は、エコロジー思想が没落し、問題解決以外の視点を見失った環境言説のなかで、ひとつの環境思想として成長する。そして脱成長主義を敗北させ、グリーン成長主義を吸収しながら、やがて環境言説のなかで主流の思想となるだろう。
  • 私たちはいま、まさにそうした環境思想の転換点を生きているのであり、環境加速主義が勝利した世界において、環境について、今後どのように語ることができるのかということが問われている。

2.環境加速主義とは何か

(1)科学技術を用いた「地球1個分問題」の克服

  • 「地球1個分問題」とは、地球生態系がもつ「地球1個分」という有限な収容能力に対して、人類社会がすでにその容量の限界に近いか、その容量を超えてしまっている可能性が高いことを受け――その兆候は、プラネタリー・バウンダリーやエコロジカル・フットプリントといったさまざまな指標によって示されている――私たちがその事態とどのように向かうべきなのかを問う問題のことである。
  • これまで人類社会は、「地球1個分問題」に対処するために、使用するエネルギーや資源の抑制や技術的な効率化を進めてきたが、有限の世界のなかで何かが無限に拡大することは不可能であるように、その試みにはあきらかな限界があると言える――そこで社会経済システムの抜本的な変革を要求してきたのがかつてのエコロジー思想であった。
  • 環境加速主義は、「地球1個分問題」に対処するために、エネルギーや資源の使用抑制や社会経済システムの抜本的な変革という道は選択しない。むしろ現在主流の社会経済システムを基本的には維持したまま、地球生態系あるいは自然環境の方を科学技術を通じて変革しようとする。
  • 環境加速主義は、プラネタリー・バウンダリーを含め、地球生態系の持つ「地球1個分」という限界そのものに介入しようとする。その意味において、地球生態系の要求に人間(あるいは社会経済システム)をあわせていくのではなく、人間(あるいは社会経済システム)の要求に地球生態系を合わせていくことが、環境加速主義のひとつの本質であると言うことができる。

(2)環境加速主義の目的は、人間社会の価値理念の具現化を最大化させることにある

  • 環境加速主義は、現在の裕福な国の人々が享受している物質的な富や、その生活水準に見合った社会の利便性や効率性を維持、拡大させようとする。ただしその最大の目標は、自立、自己決定、自己実現、多様性といった、社会的に共有されている価値理念を最大限に具現化させることである
  • その点において環境加速主義は、単に格差を固定化ないしは拡大させるようなイデオロギーでも、富裕層や産業界の独善的な利益を代表するようなイデオロギーでもない
  • むしろ環境加速主義は、自立、自己決定、自己実現、多様性といった価値理念の具現化に立ちはだかるものがあれば、それが地球生態系(自然環境)だろうと、経済社会ステムだろうと修整を加える。その意味において環境加速主義は究極の人間中心主義であるとともに、ある種の変革思想である
  • 環境加速主義は、自立、自己決定、自己実現、多様性といった価値理念の具現化を、人類全体に拡大させることを目指す。そのため必然的に、富裕国水準のライフスタイルを全人類が享受できる世界を目指すことになる。その意味において、一連の価値理念を共有しているSDGs(持続可能な開発目標)や、そうした文脈で使用される一般的な意味での持続可能性概念は、環境加速主義と強い親和性を持つことになる。

(3)環境加速主義は自然を破壊するのではなく、自然を包摂する

  • 環境加速主義は、価値理念を具現化させるために、地球生態系(自然環境)に技術的に介入する。ただしそれは、プラネタリー・バウンダリーを含め、地球生態系の持つ「地球1個分」という限界を強く意識し、地球生態系(自然環境)を管理、制御、コントロールするためである。
  • この点において環境加速主義は、かつて地球生態系(自然環境)の論理を無視する形で自然破壊や環境破壊をくり返してきた、開発主義とも、単なる科学技術万能主義とも異なっている。
  • 環境加速主義は、地球生態系(自然環境)を、社会経済システムに適合するものへと上書きし、再編成する。つまり地球生態系(自然環境)を、人間の社会経済システムへと包摂する
  • 環境加速主義が行う包摂(inclusion)というプロセスは、これまで人類が行ってきた農地、庭園、自然保護区を創出する行為を原型としている。これらは人間社会の価値理念に即して、有用であり、美的であり、自然な状態を保守したものであり、いずれも人工的な生態系である。
  • つまり環境加速主義は、地球生態系(自然環境)を、社会経済システムに適合するものとへと再構築し、それによって――高度に農地や庭園や自然保護区が融合したかのような――巨大な人為的な生態系を創造する。そして化石燃料社会が引き起こした自然環境と社会環境の亀裂を和解させ、それによってある種の自然と人間の「共生」さえ実現させる

(4)ジオエンジニアリングと宇宙進出、人体改造は環境加速主義の最前線となる

  • 環境加速主義が、外的環境である地球生態系(自然環境)へと向かうとき、その最初のターゲットは気候システムとなる。現行のジオエンジニアリングは、気候変動対策の補助的なものとして位置づけられているが、環境加速主義は、その位置づけを根本的に変更する。
  • 環境加速主義がジオエンジニアリングを技術的に成功させるとき、気候システムは、都合良く操作、管理、制御可能な対象物、あたかもエアコンの完備されたオフィスのような空間装置として認識される。同様にして、環境加速主義が生態系管理を技術的に成功させるとき、地球生態系は巨大な生物機械として認識される。
  • 宇宙探査は、いまなお人類の探究心を満たすために行われると考えられている。しかし環境加速主義は、宇宙開発の意味合いもまた転換させる。地球生態系が巨大な機械として社会経済システムに包摂されうるのであれば、理論上は、それを地球外部で実行することも可能である。つまり宇宙探査は、環境加速主義によって、巨大な農地=庭園=自然保護区であるところの人工的な生態系を宇宙に創設し、社会経済システムの包摂を宇宙空間にまで拡大させる試みへと変貌する
  • さらに環境加速主義が、内的環境としての身体へと向かうとき、身体は、自身に都合良く操作、管理、制御可能な対象物として変貌する。人工臓器や遺伝子治療から、エンハンスメント(能力強化)、老いの治療、そしてブレイン・マシン・インターフェイスにいたる人体改造技術、そして遠隔操作のロボットアバターやメタバース上のVRアバターの活用などを含んだ脱身体化と呼べる事態は、環境加速主義の一側面、すなわち身体そのものを望ましい価値理念や、社会経済システムに適合するものへと上書きし、再編成する行為として再解釈されるだろう。
  • こうして環境加速主義は、外的環境としての地球生態系を包摂し、その延長線上で宇宙空間を包摂し、ひるがえって内的環境としての身体を包摂する。そしてそれによって、ますます自立、自己決定、自己実現、多様性といった価値理念の具現化が促進されることになる。

(5)環境加速主義と加速主義そのものの関係性

  • 今日加速主義(accelerationism)として括られる思想には、いくつかのバリエーションが存在する。なかでも、その中心的な理念のひとつとなっているのは、資本主義社会のもたらす問題を、資本主義社会の変革ではなく、資本主義社会の加速化によって解決しようとする姿勢にある。
  • つまり環境加速主義は、社会経済システムがもたらした「地球1個分」問題を、既存の社会経済システムのさらなる加速化によって乗り越えていくという意味において、環境加速主義として定義される
  • こうした文脈のため、環境加速主義は、反リベラル・デモクラシー、ないしは新反動主義とも呼ばれるN・ランド(N. Land)の右派加速主義よりも、M・フィッシャー(M. Fisher)や「加速派政治宣言」(Manifesto for an Accelerationist Politics)で知られるN・スルニチェク(N. Srnicek)/A・ウィリアムズ(A. Williams)など左派加速主義の側と強い親和性を持つ
  • 環境加速主義の目標は、自立、自己決定、自己実現、多様性といった価値理念を最大限具現化させることにある。そのため環境加速主義は、とりわけ右派加速主義が陥りがちな優生主義的な主張とは正面から対立する。しかしその最終地点がシンギュラリティであるとするなら、環境加速主義と右派加速主義においても接点が生じることになる。
  • 以上の点をどのように整理するのかということが、特に思想面での学術的な課題となる。

3.環境加速主義は脱成長主義を打ち負かして勝利する

  • 環境加速主義は、環境言説の対抗軸のなかで、地球生態系の要求に社会経済システムをあわせていくことを目指す「エコ・ユートピア」の構想や、成長せずとも存続可能な新しい社会経済システムへの移行を目指す脱成長主義(degrowth)と対立することになる。
  • だが、脱成長主義は二つの理由で人々からの支持をえられることなく敗北するだろう。
  • まず、脱成長主義の目指す社会像を実現するためには、これまで貨幣的な商品やサービスによって実現されてきた福祉を、再びローカルなコミュニティ主義に基づいた、非貨幣的な相互扶助(ケア)に置き換えていくことが求められる。しかしプライベートな時空間を保障され、何でも自己決定できることが自明視されてきた現代の人々には、ローカルな相互扶助(ケア)は荷が重く(「共同の不可能性」)、そうした社会を望みたくても望めない。
  • 次に、人々が望んでいる世界とは、富裕国に準じた物質水準をより多くの人々が享受することができること、また自立、自己決定、自己実現、多様性といった価値理念がより多くの人々に具現化されることである。そのために必要となるのは、ローカルな相互扶助(ケア)ではなく、個人化された時間や空間をよりいっそう充実させてくれる高度な社会システムの整備と、その社会システムを支えるための経済成長である。このことは、人々が望んでいる改革が、脱成長主義が目指すようなものではなく、むしろ環境加速主義が目指すようなものに近いということを示している。
  • 環境言説のなかで最もポピュラーなのは、「地球1個分問題」への適応と、経済成長を両立させることができるとするグリーン成長主義(green growth)である。ただし、グリーン成長主義は、前述したSDGsや持続可能性概念と同様に、実は環境加速主義との親和性が高い。
  • なぜなら「地球1個分問題」が示すように、私たちの社会がすでに「地球1個分」の容量に近いか、すでにそれを超過している可能性が高いとするなら、そのゴールを実現させる唯一の方法は、科学技術によって「地球1個分」の限界や容量そのものを操作し、人為的に制御、拡張していく以外にないということになるからである。
  • つまり脱成長主義は人々から支持されず、グリーン成長主義はなし崩し的に環境加速主義へと吸収される。そして結果的に、環境加速主義が勝利することになる。

4.環境加速主義の本質はヒューマニズムである

  • 環境加速主義を突き動かす根本原理は、ここでいうやや特殊な意味でのヒューマニズム(humanism)であると考えることができる。
  • 一般的な意味でのヒューマニズムとは、ルネッサンス期以降の西洋世界で形成された、人間の可能性と尊厳を重視する思想であると言えるが、ここでのヒューマニズムには、そこに以下のような人間に対する強力な信念が含まれることが強調される。
  • すなわちヒューマニズムには、人間は理性の力を通じてさまざまな拘束から自分自身を解放することができる、そして人間の使命とは、そうした力を駆使することで、思い描いた理想の社会をこの地上に具現化していくことである、とする非常に強力な信念が含まれている。
  • この信念は、歴史的には、ユダヤ=キリスト教の伝統的な人間観が、ギリシャ哲学の影響のもと変質することによって誕生した。しかしその信念の血脈は、宗教的な教義の影響力が低下する、18世紀のリベラリズムや啓蒙思想を経由してなお、そして今日のSDGsや、環境加速主義が重視する価値理念においてさえ受け継がれている。
  • ヒューマニズムは、現実の外部に存在する理念に即して、現実の方を作り替えようとする――その意味において「現実を否定する理想」と言うこともできる。環境加速主義は、そうしたヒューマニズムの原理が、地球生態系や、宇宙空間や、内的環境としての身体へと向かった結果であると考えることができる。
  • 要するに、環境加速主義とはヒューマニズムそのものである。したがって、もしも私たちが環境加速主義を批判しようとするなら、私たちは同時にヒューマニズムそのものをも批判しなければならなくなる。
  • 逆に私たちが、ヒューマニズムに体現される上記の信念や、自立、自己決定、自己実現、多様性といった価値理念を無条件に信奉するなら、私たちは必然的に環境加速主義へと向かうことを肯定しなければならなくなる。
  • このジレンマは、環境加速主義をめぐるひとつの未解決問題である。
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