「書評・レビュー」のページを公開しました

 拙著『〈自己完結社会〉の成立』に関する「書評・レビュー」ページを公開しました。このページでは、同書について取りあげてくださった文献、書評、レビューなどについてご紹介していくつもりです。

 第一弾は、環境哲学/メディア論の研究者で、現代人間学の共同研究者でもある吉田健彦さんが書いてくださった書評です。

【書評】吉田健彦「哲学の再生に向けた果敢な試み――上柿崇英『〈自己完結社会〉の成立』を読む」『環境思想・教育研究』、環境思想・教育研究会、第15号、pp.108-110

 本書の最終的な到達点が「世界観=人間観」の捉え直しにあるという点を汲み取ってくださり、また現代社会や人間存在について論じるうえで、本書が敢えてひとつひとつの基礎概念から独自に整備していったことの意図、そして本書といわゆる「疎外論」の違いについて言及してくださっています。

 「疎外論」とは、簡単に述べますと、現代社会の特定の問題(病理)を分析するにあたって、資本制社会の構造や科学技術の影響など、何らかの外的な要因によって、人間本来の形(性質)が「歪められた」ことによって生じていると考えるアプローチです。

 本書の主題となる〈自己完結社会〉が、社会の変容に伴って「人間本来の形(性質)が歪められたことによって生じた病理」であると見なせるのかどうか――このことは学術的には重要な論点で、同書ではこの問題について【下巻:補論二】「学術的論点のための五つの考察」で詳しく述べています。

 著者の立場は、〈自己完結社会〉がある種の「病理」的側面を備えているとはいえ、人間の存在様式は常に変化し続けるものであり、「疎外論」のように「人間本来の形(性質)が歪んだ」という説明にはならないというものです。

 本書では、人間は、生物存在としての「ヒト」の枠組みに明確に規定されつつ、その生物学的な本性のうちに、人為的な「社会環境」を媒介として、自らの存在様式を変容させることが含まれていると解釈されます。そのため「人間本来の形(性質)」というもの自体が想定できない、ということになるわけです。(ただし、現代の人間が置かれた状況に問題にすべき「病理」がない、ということにはなりません。このあたりのニュアンスは、吉田健彦さんの言う「必然的異常社会」の説明が参考になると思います)

 加えて重要なのは、本書では、「人間本来の形(性質)」を想定するアプローチが、かえって「あるべき人間(社会)」の幻想を生みだし、その理念に現実世界が振り回されるという事態を問題視しているという点です。この問題は、本書では「現実を否定する理想」、ないし〈無限の生〉の「世界観=人間観」が抱える問題として【最終考察】の中心的なテーマとなります。こうした意味からも、本書のアプローチは「疎外論」とは区別して読んでいただきたいと思っております。


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