吉田健彦『メディオームーポストヒューマンのメディア論』を読む:【第1回:後半】メディア技術と人間存在のゆくえ

 以前投稿しました、吉田健彦さんの著作『メディオーム――ポストヒューマンのメディア論』の解説動画【後半】部分を公開しました

 『メディオーム』は、インターネットから、ライフログ、3Dプリンタに至るまで、加速度的に進展していくメディア環境にあって、私たち人間存在のゆくえについて、一人の思想家が徹底的に掘り下げた作品です。

 私たちはどこへいくのか? 「この私」とは何ものか? なぜ人は他者を求めてしまうのか? といった疑問を一度でも持ったことがある方には、ぜひ一度手に取っていただきたい作品です。


 第1回の後半では、「本書の見所」という形で、いよいよ本書の全体像を紐解いていきます。

  • (1)この私とは何ものか?ー他者原理と欲望の二重らせん
  • (2)デジタル化とは何か?ー存在の地図化、あるいは世俗的な神
  • (3)メディオームとは何か?ー存在論的ノイズ、そして他者原理への信頼

 ぜひ覗いてみてください。

note版 吉田健彦『メディオームーーポストヒューマンのメディア論』を読む(第1回)

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吉田健彦『メディオームーポストヒューマンのメディア論』を読む:【第1回:前半】メディア技術と人間存在のゆくえ

 これまでずっとやりたいと思っていた、吉田健彦さんの著作『メディオーム――ポストヒューマンのメディア論』の解説動画(前半)を作成しました。

 『メディオーム』は、インターネットから、ライフログ、3Dプリンタに至るまで、加速度的に進展していくメディア環境にあって、私たち人間の存在のあり方のゆくえについて、一人の思想家が徹底的に掘り下げた作品です。


  • 「あらゆることを実現させてくれる技術を前に、ふと虚無のようなものを感じることはないか?
  • 「誰とも簡単に繋がれる時代に、なぜ多くの人々が孤独を抱えて悩んでいるのか?
  • 「他者と関わることは、なぜこんなにも苦しみを伴うのか?
  • 「それなのに、なぜ私たちは他者を求めてしまうのか?

 以上のような疑問を一度でも持ったことがある方には、ぜひ読んでいただきたい一冊です。

 さて、第1回では、本書の全体像が分かるように動画を計画しましたが、今回公開する前半部分では、以下の3点が中心的なコンテンツとなります。

  • 本書の問題意識
  • 著者、吉田健彦さんについて
  • メディア技術と私たち―「技術肯定派VS技術否定派」の向こう側

 特に「メディア技術と私たち」では、本書の重要なキーワードの一つである「必然的に異常な社会(必然的異常社会)」についての説明があります。

 ぜひ覗いてみてください。note版もどうぞ。

note版 吉田健彦『メディオームーーポストヒューマンのメディア論』を読む(第1回)

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「環境加速主義」を論じた、はじめての書籍が刊行されました

 環境加速主義について論じた、はじめての書籍が近々刊行されます(第1章担当)。環境加速主義という概念自体、私がそう呼んでいるだけと言えばそうなのですが、ここで環境加速主義として論じているようなテーマを、おそらくまだ誰も真剣に論じたことはない、という意味です。

 上柿崇英(2024b)「【第1章】人類社会と環境の未来――「地球1個分」問題と環境加速主義の時代」『環境と資源・エネルギーの哲学(未来世界を哲学する【第1巻】)』水野友晴責任編集、丸善出版、pp. 1-44

 noteの方に、この論文の概要を解説しましたので関心のある方はリンク先をご覧ください。以下の5つの論点から重要な点を整理しています。

  • (1)脱成長主義の敗北と環境加速主義の勝利
  • (2)環境加速主義の理論的骨格
  • (3)人類史から見た環境加速主義
  • (4)環境加速主義を支える技術領域
  • (5)環境加速主義を支える世界観としての「ヒューマニズム」

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「思念体」と脱身体化

 昨年執筆した「思念体」についての論文がJ-stageより無事に公開されました。


上柿崇英(2024a)「世界観としての「思念体」とその構造――メタバース、ヒューマノイドが拓く新しい世界観と「脱身体化」の未来について」(『共生社会システム研究』、共生社会システム学会、Vol.18 No.1、130-154)


 この論文の主旨は以下のようなものです。

 これまで私たちは、ネット上のサイバー空間で体験される出来事は、それがいかに精巧なものに見えたとしても、物理世界の現実よりも劣ったものとして認識されてきました。本来の現実はあくまで物理世界の側にあって、サイバー空間上に現れている私は、あくまで物理世界にいる本来の私の仮の姿でしかないといったようにです。


 ところが、VR/メタバースやヒューマノイド、遠隔操作ロボットなどが発達してくると、将来的に私たちは、これとはまったく異質の世界観のもとで生きるようになるかもしれないということです。

 それは、人間の本質を物理世界の身体的な自己にではなく、身体から切り離されたある種の精神体としての自己に見いだすこと、そしてその精神体となった自己が、物理世界の身体やサイバー空間上のVRアバター、遠隔操作のロボットアバターとして現実世界に出現してくると理解される世界観です。


 この精神体のことを、本論では「思念体」(tulpa)と呼んでいます。人間の意識や思考は、依然として、脳を中心とした身体に属しているのですが、それにもかかわらず、ここでは身体が「思念体」を生みだすのではなく、「思念体」が「身体的な私」となって現れていると想像されます。ここでは身体は、数々のアバターと並んで、「思念体」が現実世界に具現化するための、ひとつの選択肢に過ぎないものとして想像されるのです――。

 近年、メタバースやVR、VTuberなどについての研究論文がいろいろと出されるようになりましたが、このあたりの世界観の問題を正面から論じる研究はまだまだ十分ではありません。本論では、こうした世界観が将来的に成立すると仮定したときに何が起こるのか、そのような未来において人間はどのような存在になっていくのかといったことを踏み込んで論じています

 興味がある方は、ぜひ覗いていただけたらと思います。

※note版では本論の執筆の背景について、もう少し触れていますのでこちらもご参照ください※


 反出生主義における三つの実践的不可能性と「無限責任」の問題――心情から読み解く〈信頼〉の不在とその行方

1.はじめに

2.「思念体」が成立する技術的背景
(1)メタバースがもたらすもの
(2)ヒューマノイドと遠隔操作型ロボット
(3)「脱身体化」へと向かう社会

3.「思念体」の性質とその成立条件
(1)新たな世界観としての「思念体」
(2)「思念体」の構造――「クラウドの比喩」と「アカウントの比喩」
(3)「思念体」の成立条件――「複合現実の等価性」と「人格の独立性」
(4)「思念体」という用語、先行研究をめぐって

4.「思念体」とその世界観から浮上する新たな問題圏
(1)「思念体」が直面する制度的な問題
(2)「思念体」は「こうでなければならない自分」の幻想に思い悩む
(3)「思念体」とは、ヒューマニズムである

5.おわりに

  以下、冒頭の部分について転載しておきます。

 人間は、技術を用いてこの世界に新たな環境を創出し、その環境を通じて自らの姿をも劇的に変容させてきた。農耕の成立、化石燃料の使用、インターネットの出現を想起するように、われわれがある巨大な変容に直面する際、その前後で人間社会の様相はまるで違ったものとなる。のみならず、そうした変容に応じて、われわれの世界に対する理解の仕方、すなわち世界観もまた著しく変遷してきたのである。

 想像してみてほしい。太古の狩猟採集民は、後世の人々が、巨大な建造物に何100人も押し込まれて生活していることなど想像することはできなかった。中世の農耕民は、人々が労働のために鋼鉄の塊に乗って何10キロも移動することなど想像することはできなかった。同じように、半世紀前の人々の感性からすれば、われわれが日々「いいね」の数に気にしながら、掌ほどの電子機器を操って、いかなる疑問をも秒単位で解消できると信じていることなど、はなはだ異常でしかなかっただろう。
 したがって50年先、100年先の未来において、現在のわれわれにとって奇異とも思える何ものかが広く常識的であると信じられていたとしても、何ら不思議ではないのである。

 本論が問いたいのは、近年急速な進展を見せているメタバースやヒューマノイドといった「ポストヒューマン時代」の技術的帰結が、仮に新たな世界観の形態をわれわれにもたらすとしたら、それはいかなるものになるのかということである。

 例えばサイバー空間上で体験される出来事は、今日のわれわれにとって、たいてい物理世界の現実よりも劣ったものとして認識されている。そこでは、えられた体験がいかに精巧なものに見えたとしても、本来の現実はあくまで物理世界の側にあって、サイバー空間上に現れている私は、あくまで物理世界にいる本来の私の仮の姿でしかないと考えられている。

 ところが将来われわれは、これとはまったく異質の世界観のもとで生きるようになるかもしれない。それは、人間の本質を物理世界の身体的な自己にではなく、身体から切り離されたある種の精神体としての自己に見いだすこと、そしてその精神体となった自己が、物理世界の身体やサイバー空間上のVRアバター、遠隔操作のロボットアバターとして現実世界に出現してくると理解される世界観である。

 この精神体のことを、本論では「思念体」(tulpa)と呼ぶことにする。人間の意識や思考は、依然として、脳を中心とした身体に属している。それにもかかわらず、人々には、身体が「思念体」を生みだすのではなく、「思念体」が「身体的な私」となって現れていると想像される。ここでは身体は、数々のアバターと並んで、「思念体」が現実世界に具現化するための、ひとつの選択肢に過ぎないものとして想像されるのである。

 確かにこうした世界観は、今日のわれわれにとっては奇異に映る。だが前述のように、人間の未来に確実なことなどひとつもないとするなら、われわれが来たるべき世界への準備として、さまざまな可能性を検討しておくことは十分理にかなっていると言えるだろう。例えば世界観としての「思念体」は、いかなる条件において成立しうるのだろうか。そして少なくない人々がそれを受け入れるようになったとき、そこにはいかなる事態がもたらされるのだろうか。本論では、こうした問題について考えてみたい。

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